ハインリヒ・ヒムラー

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ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler、テンプレート:Audio1900年10月7日 - 1945年5月23日)は、ドイツ政治家

1929年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の準軍事組織である親衛隊(SS)の第3代親衛隊全国指導者(RFSS)に就任し、党内警察業務を司った。ナチ党の政権掌握後には全ドイツ警察長官、ヒトラー内閣内務大臣などを歴任し、ドイツの警察権力を掌握した。ゲシュタポ強制収容所(KZ)も彼の指揮下に置かれていた。

第二次世界大戦時にはドイツが占領したヨーロッパの広範な地域に彼の警察権力が及ぶこととなった。ゲルマン民族支配民族 (de) と考え、他民族を蔑視した。とりわけユダヤ人を強く憎悪し、大戦中にはヨーロッパのユダヤ人やロマなど「生きるに値しない命」に対して大量虐殺(ホロコースト)を組織的に実行した。ソ連人(ロシア人ウクライナ人など)やポーランド人チェコ人などのスラブ民族に対しても軽蔑心を隠さず、冷酷な態度で支配に臨んだ。またゲルマン民族であっても反体制派や「民族の血を汚す者」は厳しく取り扱った。大戦後期には軍集団の指揮も任されたが、戦果はあげられなかった。

大戦末期にはドイツの戦況を絶望視して独断でアメリカ合衆国との講和交渉を試みたが失敗。これを知ったアドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて解任された。その後、イギリス軍の捕虜となり、自殺した。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-19, Familie Himmler.jpg
ハインリヒ王子とヒムラー一家[1]
父ゲプハルト(後列右)、母アンナ(後列左)、ハインリヒ(前列左)、代父ハインリヒ王子と弟エルンスト(中央)、兄ゲプハルト(前列右)

ハインリヒ・ルイトポルト・ヒムラーは、1900年10月7日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国の首都ミュンヘンのヒルデガルト通り(Hildegardstraße)二番地にある高級アパート二階に在住するヒムラー家の次男として生まれた[2][3][4][5]

父ヨーゼフ・ゲプハルト・ヒムラー(Joseph Gebhard Himmler)は、税関職員の非嫡出子として生まれ、貧しくも生活に励み、名門のルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘンを卒業しギムナジウムの教師になった人物であった。教師として高い評価を得ており、バイエルン王室のハインリヒ王子の家庭教師を務めていた[6][4][3]。母アンナ・マリア・ヒムラー(Anna Maria Himmler)(旧姓ハイダー(Heyder))は、裕福な貿易商人の娘で、1897年にゲプハルトと結婚していた[7]

ヒムラーが生まれる二年前の1898年7月29日に夫妻は長男ゲプハルト・ルートヴィヒ(Gebhard Ludwig)を儲けている[8]。さらに1905年12月23日には三男エルンスト・ヘルマン(Ernst Hermann)が生まれている[5]

ハインリヒ・ルイトポルトはこの二人の兄弟の間の次男であった。「ハインリヒ」も「ルイトポルト」もバイエルン王族から名付けた名前であった[5]。特に「ハインリヒ」の名は、ゲプハルトが家庭教師を務め、またその縁でハインリヒの代父となっていたハインリヒ王子が自らの名前を名付けたものだった[9]。当時、王室の人間から名前をもらうことは大変な愛顧であり、名誉なことであった[4][3]。こうした王室との関わりとカトリックへの厚い信仰心によってヒムラー家は大変に保守的な家風であり、ハインリヒもカトリックの教えに従って保守的で厳しいしつけを受けた。ただし父ゲプハルトは反ユダヤ主義者ではなかった[3]。ヒムラー家は金持ちとまではいえないが、かなり安定した中産階級の家庭であった[3]。戦後、多くの歴史学者が幼少期・青年期のヒムラーに「異常性」や「犯罪性」を見つけ出そうと試みたが、それらしいものは見つけられなかった。ロジャー・マンベルが当時のバイエルンという地域環境にヒムラーの精神性を求めているぐらいである[10]

父ゲプハルトの遺したメモによるとヒムラーは小学校時代によく病になり、160回も欠席したという。しかし家庭教師ルーデット嬢の指導のおかげで学業の遅れは取り戻し、IIの成績で小学校を卒業したという[3]。1910年9月にミュンヘンの名門ギムナジウムのヴィルヘルム・ギムナジウム(de)に入学した[11]。同ギムナジウムの担任教師から「たいそうな才能に恵まれた生徒で、たゆまぬ勤勉さと燃えるような向上心と極めて熱心な授業態度によって、クラスで最優秀の成績を収めた」と称賛された[12][13]。このギムナジウムでの同級生に後にアメリカ合衆国に移住してアメリカ国民となり、歴史学者となったジョージ・ハルガーテン(en)がいた[13][# 1]。ハルガーテンはこの頃のヒムラーについて「考えられる限りで最も優しい子羊だった。虫一匹殺せないような少年だった」と証言している[12]。1913年に父ゲプハルトがミュンヘン北東のランツフートハンス・カロッサ・ギムナウジム(de)の共同校長に任じられたため、ヒムラー一家はランツフートへ移住した[15]。ヒムラーも父が校長を務めるギムナジウムへ入学している。彼は歴史学、古典学、宗教学で最優秀の成績をとり[16]、他の主要科目も優秀な成績であったが、体育だけは苦手だったという[17]第一次世界大戦をはさんで1919年7月に同校を卒業した。卒業証書には「常に品行方正で、性格は几帳面な勤勉さを持っていた」と記された[16]

第一次世界大戦中の1915年初め、兄ゲプハルトとともにランツフートの「青少年軍」(Jugendwehr)の活動に参加した。これは軍の将校の指導の下に簡単な運動やギムナジウムでの行進などを行う青少年準軍事組織であった[18]。さらに1915年7月29日、17歳になった兄ゲプハルトが予備軍(Landsturm)に入隊し、1918年4月に西部戦線へ送られた[19]

ヒムラーも従軍したがり、父親に頼みこむようになった。父ゲプハルトはまず彼がギムナジウムを卒業することを希望していたが、熱心さに根負けし、バイエルン王室へのコネなどを使って息子の入隊の可能性を探った。ヒムラーは始め海軍士官に志願したが眼鏡をかけていたために受け入れられず[# 2]、1917年末にバイエルン王国の第11歩兵連隊「フォン・デア・タン」に入隊した[20][21]レーゲンスブルクで6カ月の歩兵訓練を受けた後、1918年6月15日から9月15日までフライジンクで士官候補生としてのコースを修め、9月15日から10月1日までバイロイトのバイエルン第17機関銃中隊で機関銃教練を受けた[22][23][21]

しかしヒムラーが前線へ配属される前に1918年11月初めにドイツ革命が勃発して帝政が倒れ、1918年11月11日にはドイツは降伏し、第一次世界大戦が終結した。結局、彼が実戦経験を持つことはなかった[# 3]

なお、兄ゲプハルトは大戦中に西部戦線で塹壕戦を経験し、兵長まで昇進して一級鉄十字章二級鉄十字章を受章している[25]。また代父ハインリヒ王子は大戦中に戦死した。ハインリヒ王子の遺産のうち1000ライヒスマルクの戦時国債がヒムラーに遺贈された[3]

第一次世界大戦後[編集]

第一次世界大戦終結後の1918年12月に第11歩兵連隊予備大隊を除隊した。しかしヒムラーはなおも戦場に立ちたがっており、1919年4月には反革命義勇軍(フライコール)の一部隊であるラウターバッハ義勇軍(Freikorps Lauterbach)に加わって社会主義者が立ち上げたミュンヘン・レーテ共和国の打倒の軍に従軍した。レーテ共和国は打倒されたが、ヒムラーの部隊はミュンヘンまで到達しておらず、ここでも彼は後方支援の任務に留まっている[21]

その後、敗戦の混乱で経済的に困窮することになると予想した父ゲプハルトは息子に農場で働くことを求めた[21]。ヒムラーは父の求めに応じてミュンヘン北方インゴルシュタットの農場で働いていたが、まもなくチフスに罹病し寝込み、医者から1年間療養してその間は大学で農学を勉強するよう薦められた。1919年10月18日、ヒムラーはミュンヘン工科大学に入学して農学を学ぶこととなった[26]。1919年11月9日、彼は大学内のある学生倶楽部に入会した。決闘で顔に傷を入れてもらいたいと願っていたためだった。当時のドイツの大学では男が決闘をして顔に傷を付けることは大きなステータスであったが[27][# 4]、ヒムラーは胃弱でビールを飲むことが出来なかったため、「決闘に参加する資格なし」と認定されてしまった[16]。焦ったヒムラーは直ちに医者から胃腸過敏症の証明書をもらい、ようやく決闘への参加が認められた[16]。しかし誰も弱々しい彼を決闘相手として認めてくれなかった。ヒムラーがようやく決闘して顔に傷を入れることができたのは、卒業間近の1922年6月22日のことであった[27]

しかし大学時代のヒムラーは弱々しくも心優しい人物であったことが彼自身の日記から窺える[# 5]。1919年には盲目の人物の家に何度も通って本を読み聞かせ[27]、1921年には貧しい老女の所へ通って食料などをそっと置いていった[# 6]。友人が病気になるとこまめに見舞いにいって、本人や家族に代わってお使いをした[29]。ウィーンの恵まれない子供のための慈善芝居にも出演している[29]

またヒムラーの日記から、1921年頃から彼が外国への移住を計画していたことが分かる[# 7]。この国外移住願望は大学卒業後もしばらく持ち続けており、1924年にソ連大使館にウクライナに移住できないかを問い合わせている[30]

1922年8月1日、学位を取得して卒業。学業の成績は平均評点1.7とかなり優秀であった[30]。卒業後すぐにオーバーシュライスハイムOberschleißheim)で農薬や肥料を扱う会社の研究員となる[30]。しかし1923年8月末にはヒムラーはオーバーシュライスハイムでの仕事を退職して、ミュンヘンに戻り、政治活動に専念するようになる[16][31]

政治活動や軍事活動には、大学在学中から熱心に取り組んでいた。1919年12月、バイエルン人民党に入党している(1923年に離党)[16]。1920年5月、ミュンヘン市民自衛軍に入隊し、ヴァイマル共和国第21ライフル連隊からライフルと鉄兜を受け取った[26]。第21ライフル連隊はエルンスト・レームが兵器担当将校を務めていた[32]。大学卒業に際して、ヒムラーはレームの組織した准軍事組織「帝国戦闘旗団」(de)に入団した[31][32]。1923年、国粋主義団体「アルタマーネン」(de)に入団している[16]。ここでリヒャルト・ヴァルター・ダレの独特な農本主義血と大地」思想(de)に影響された。ヒムラーは、親衛隊全国指導者となったのちにダレを親衛隊に招き入れている[33]。ヒムラーは自作農民中心社会を夢見ていた。農地の豊かな東方にドイツ農民を植民させることによって農家の二男・三男が都市へ出る必要がなくなり、またドイツ政府に対して農民が決定的な影響力を持つようになると確信していた。1924年の彼のメモは「都市生活者を農民にけしかけている国際ユダヤ民族は最も邪悪な農民の敵」とし、また「600年来、ドイツ農民は世襲財産を守り、拡大するためにスラブ民族と戦うよう運命づけられてきた」としている。ヒムラーの「国際ユダヤ民族」と「スラブ劣等民族」への憎しみは農本主義の産物だった[34]

ナチ党黎明期の活動[編集]

1923年8月、党員番号14303で国家社会主義ドイツ労働者党に入党したが、ヒムラーはあくまで帝国戦闘旗団のメンバーとしてレームに従った。ミュンヘン一揆の際にもレームの指揮の下にバイエルン州戦争省の制圧に参加した。このときのヒムラーはレームの無名の部下の一人にすぎなかったが、帝国戦闘旗団の旗手として旗を持つ役を務めていたため、写真はしっかりと残っている[35][36]

ヒムラーがいつヒトラーと初会見を果たしたかは定かではないが、ミュンヘン一揆の際にヒトラーの演説を聞いていたことはほぼ間違いないとされている。しかし彼がヒトラーに従うようになったのはヒトラーが刑務所から釈放され、党が再建されて以降のことである[37]

当時のヒムラーはあまりに無名の小物すぎたので一揆の失敗後も逮捕を免れた。しかし彼の尊敬するレームがシュターデルハイム刑務所に投獄されてしまったため、彼の失望は深かった[38]

党の活動が禁止された間、ヒムラーはエーリヒ・ルーデンドルフアルブレヒト・フォン・グレーフェ(de)、グレゴール・シュトラッサーが指導するナチ党偽装政党国家社会主義自由運動(NSFB)に入党した[38][39][40]。ヒムラーはナチス左派で知られたグレゴール・シュトラッサーの下で120ライヒスマルクの給料で働くこととなった。シュトラッサーは1924年5月と12月の国会議員選挙に出馬することとなり、ヒムラーはニーダーバイエルンNiederbayern)の宣伝担当に任命された。これが彼の最初の大抜擢となった[41]。オートバイに乗って走り回る彼の姿をニーダーバイエルンの多くの人が目撃している[42]。シュトラッサーはヒムラーについて「彼(ヒムラー)は私に献身的であり、私は秘書として彼が必要だ。彼にはやる気もある。だが彼を北(=ベルリン)へ連れて行くつもりはない。世界を征服する男ではないからだ」と述べている[43]

1924年末にヒトラーが釈放され、1925年2月にナチ党が再建されるとシュトラッサーとともにナチ党へと戻った。同年にシュトラッサーがナチ党のニーダーバイエルン=オーバープファルツ大管区指導者となるとヒムラーはその代理に任じられた。さらに1926年にシュトラッサーがナチ党宣伝全国指導者に任命されるとヒムラーもそれに伴って宣伝全国指導者代理となった[38]。しかしシュトラッサーは自らの補佐役としてはヒムラーよりヨーゼフ・ゲッベルスの方を高く買っていたという[44]

ファイル:Bundesarchiv Bild 146II-783, Heinrich Himmler.jpg
1929年、親衛隊全国指導者になったばかりの頃

1925年8月8日に親衛隊(SS)に入隊(隊員番号168)。1927年には第2代親衛隊全国指導者エアハルト・ハイデンの代理に任じられた。ハイデンは突撃隊最高指導者フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンと対立を深めて1929年1月6日に辞職することとなった[45][46]。ヒムラーはハイデンの後任として、同日第3代親衛隊全国指導者に任命された。しかし当時の親衛隊は突撃隊の下部組織であり、隊員も280名ほどしか所属していなかった[45][47]

1928年7月3日にはリッペ自由州Freistaat Lippe)ブロンベルク(Blomberg)の地主の娘で看護婦のマルガレーテ・ボーデンと結婚しているが、党からヒムラーに支払われていた当時の給料は安く、それだけでは生活困難だったため、マルガレーテの資産を売却して養鶏も営んだ[48][49][50]。しかし経営不振で後に倒産した。1929年8月8日に長女グドルーンが生まれたが[51]、その直後にヒムラー夫妻は別居状態と化した[52][53][54]

親衛隊全国指導者[編集]

ヒムラーは親衛隊を党内警察組織として拡充し、1929年12月には1000人[46][55]、1930年12月には2700人[46][55]、1932年4月には2万5000人[56]、1932年12月には5万2000人と順調に隊員数を増やした。 これは1929年10月24日ニューヨークウォール街の大暴落により発生した世界恐慌が関係していた。失業者がなだれを打ってナチ党やナチ党組織へ参加を希望し、親衛隊にも入隊希望者が殺到した[57]。親衛隊より多くこの人材源を吸収した突撃隊には、ドイツ各地で徒党を組んで無法行為を働く者が増加した。ついには党首ヒトラーの統制すらも受け付けなくなるほどに荒れ、当時選挙による合法的政権獲得を目指していたヒトラーにとっては頭痛の種となっていた。ヒトラーはこの突撃隊の無法分子に対する警察組織の必要性を痛感し、その任務を果たす組織としてヒムラー率いる親衛隊に目を付けた[46][58]。親衛隊の拡大に強く反対していた突撃隊最高指導者フォン・ザロモンがヒトラーとの対立から1930年8月12日に辞職することになり、さらに1930年8月終わりには東部ベルリン突撃隊指導者ヴァルター・シュテンネス(de)が党指導部に対して反乱を起こした[59]。こうした情勢からヒトラーは1930年11月7日付けの命令で正式に親衛隊を党内警察組織と規定し、親衛隊は突撃隊の指揮に従う必要はないと定めた(ただし1934年の「長いナイフの夜」までは形式的には突撃隊の下部組織であった)[60]

ファイル:Bundesarchiv Bild 102-02134, Bad Harzburg, Gründung der Harzburger Front.jpg
1931年、国家人民党鉄兜団と「ハルツブルク戦線」を組織した際のナチ党。エルンスト・レームの後ろにいる黒い帽子の人物がヒムラー。

ヒムラーは党内警察としての任務を果たすべく親衛隊内に情報部の創設を考えるようになり、その運用を任せられる人材を探した。1931年6月に親衛隊上級大佐フリードリヒ・カール・フォン・エーベルシュタイン男爵の推薦を受けて親衛隊員の面接を受けに来た元海軍将校ラインハルト・ハイドリヒに彼は目をつけ、ハイドリヒを親衛隊員として採用した。IC課を設置し、翌1932年7月に同課をSDに改組した。長官にハイドリヒを任命した[61][62]

1931年4月初めのヴァルター・シュテンネスの再反乱ではベルリン大管区親衛隊指導者クルト・ダリューゲが鎮圧に活躍している。この功績で親衛隊はヒトラーから高く評価されるようになり、党内警察として突撃隊からの独立性を強めた[56]

『血と大地』イデオロギーを確立したダレは「歴史に現れる偉大な帝国や文化はほとんど北方人種により作られた。これらの帝国や文化が滅びたのは北方人種の純血が守れなかったからである」と説いていた。こうした思想に強く影響されていたヒムラーは、1929年4月に親衛隊の組織規定の草案をヒトラーやフォン・ザロモンに提出し、人種的な問題を親衛隊入隊の条件に据えるようになった[63]。人種の基準を立てることで親衛隊をエリート集団とし、数で勝る突撃隊を抑え込むことを目指した[44]。1931年12月31日の命令で「SSは特別に選抜されたドイツ的北方人種の集団である」と定義し、ダレを長官とする親衛隊人種及び移住本部(RuSHA)を新設させ、親衛隊員たちに対してRuSHAの調査と許可を経ずに結婚することを禁じた[64]。花嫁が「健康で遺伝的に問題がなく、少なくとも人種的に同等である」ときにのみ婚姻が許可された。また婚姻が許可された親衛隊員は子供を持つことが義務として定められており、子供のない親衛隊員は給料の一部を受給できなかった。「ゲルマン人種を純粋培養するつもりだ」とヒムラーはことあるごとにスピーチするようになった[65]。ヒムラーは後に植物と絡めて次のように語った。「品種改良をやる栽培家と同じだ。立派な品種も雑草と交じると質が落ちる。それを元に戻して繁殖させるわけだが、我々はまず植物選別の原則に立ち、ついで我々が使えないと思う者、つまり雑草を除去するのだ。私は身長5フィート8インチ(約173センチ)の条件で始めた。特定の身長以上であれば、私の望む血統を有しているはずだからである」[57][66]

1932年1月25日にはヒムラーは党本部建物である褐色の家de)の警備を任され、「共産主義者と警察の妨害から党活動を守る」任務を与えられた[67][68]

1932年7月7日、親衛隊の独自性をより強く示すために親衛隊の制服を改定。この時に有名な親衛隊の「黒服」が定められた[56]。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の近衛軽騎兵(de)である[69]

ナチ党の権力掌握後[編集]

政治警察を掌握[編集]

ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領から首相に任命されて政権を掌握した1933年1月30日、多くの党幹部が中央政府や各州の要職に就任したが、ヒムラーには当初何のポストも与えられなかった[70]。ヒムラーが自分をあまり強く推さなかったのが原因であるという[71]

プロイセン州内相ヘルマン・ゲーリングは2月22日に1万5000人のSS隊員をプロイセン州補助警察として動員した[72]。しかしこの補助警察の指揮権はクルト・ダリューゲが握っていた[72]。3月9日、ヒムラーは、ハインリヒ・ヘルト首相のバイエルン州政府の解体に参加したが、この解体も主導的役割はフランツ・フォン・エップが果たし、ヒムラーの役割は副次的だった。ヒトラーが新しいバイエルンの統治者「バイエルン州総監」に選んだのもエップだった。ヒムラーは自分がそのポストに任命されると期待していたが[71]、結局彼にはミュンヘン警察長官(Polizeipräsident von München)のポストが与えられるに留まった[70][73]。しかし彼は不満を漏らすことなく、ひたすら職務に励んだ。彼はハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命し、党の政治的敵対者を次々と「保護拘禁」(de)させた[74]

「保護拘禁」した者を収容する施設としてミュンヘン郊外のダッハウダッハウ強制収容所を設置させ、1933年3月20日にヒムラーが記者会見で同収容所の開設を発表した[75]。同収容所は開設当初から親衛隊が単独で運営していた。1933年4月1日にはバイエルン州政治警察司令官(Politischer Polizeikommandeur in Bayern)に任命された[76]

ヒトラー内閣内相ヴィルヘルム・フリックによる強制的同一化政策によって各州の自治権の取り上げが進む中、1934年1月までにプロイセン州シャウムブルク=リッペ州de)を除く各州の政治警察はヒムラーに任せられることとなった[77][78][79]

一方プロイセン州は首都ベルリンを含んでドイツ国土の半分以上を占めた巨大州であったが、ゲーリングは独自に警察権力を掌握しようとしていたため、当初ヒムラーに警察権力を明け渡そうとしなかった。ヒムラーやハイドリヒはプロイセン州の警察権力を確保するため、ヒンデンブルク大統領にゲーリング配下のプロイセン州秘密警察ゲシュタポやその局長ルドルフ・ディールスの無法行為を讒言するなどして[80]、ゲーリングに度重なる圧力を与えた。

ゲーリングはヒムラーに対して譲歩した。1934年4月20日、ディールスのゲシュタポ局長 (Leiter des Geheimen Staatspolizeiamtes) の上位職として「ゲシュタポ監査官及び長官代理」(Inspekteur und stellvertretender Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)を新設し、ヒムラーをこれに任じたのであった。ヒムラーは直ちにゲーリングの息のかかったディールスをゲシュタポ局長から解任し[81]、後任にハイドリヒをゲシュタポ局長に据えた。ゲーリングは1935年11月20日までゲシュタポのトップであるゲシュタポ長官 (Chef des Geheimen Staatspolizeiamtes)の座に留任したが既に形式的な存在であり、実質的なゲシュタポ指揮権はゲーリングからヒムラーに引き渡されていた[82][83][84]

長いナイフの夜[編集]

一方ヒムラーがゲシュタポを掌握した頃、エルンスト・レーム率いる突撃隊は貴族やユンカーが牛耳る国軍に取って替わる第二革命を唱え、国軍との緊張を高めていた。国軍との連携を重視するヒトラーにとって厄介な存在となりつつあった。とはいえ長年の同志であるレームが相手であるだけにヒトラーの突撃隊問題に関する立場は曖昧であった。1934年2月28日にはレームと国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクに国軍がドイツ唯一の国防兵力であり、突撃隊は訓練など国軍の補助にあたることで合意させて和解させようとした[85]。しかし突撃隊には不満が残り、レームは反ヒトラー言動を強めた[85]

ハイドリヒは親衛隊の勢力拡大の蓋になっている突撃隊を粛清するチャンスが来たと見て、レーム一派の抹殺計画を企てた[86]。しかしヒムラーにとってレームはかつて最も尊敬した人物であり、恩人でもあった。またその計画を実行に移せば突撃隊と親衛隊に修復不可能な溝ができるため、しばらくは悩んでいた[86][87]。しかし結局ハイドリヒに説き伏せられてヒムラーもついにレームら突撃隊幹部を粛清することを企図するようになった。ヒムラーも一度決意したのちはためらったり、手心を加えることはなかった[86][87]

ヒムラーとハイドリヒは、同じく突撃隊の粛清を企図するゲーリングと連携した。突撃隊問題に曖昧な態度をとるヒトラーに粛清を決意させるため、ヒムラー、ハイドリヒ、ゲーリングらは突撃隊の「武装蜂起計画」をでっち上げることとした。1934年4月下旬から5月末にかけてハイドリヒはレームと突撃隊の「武装蜂起」の証拠の収集・偽造を行った[88][89]。更にハイドリヒに暗殺対象者リストの作成にあたらせた[90]

そして1934年6月はじめ頃から偽造された証拠がばら撒かれて突撃隊「武装蜂起」の噂が流された。この噂を重く受け止めた大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクと国防相ブロンベルクは、1934年6月21日に首相ヒトラーに対し、もし突撃隊問題が解決できないならヒトラーの権限を陸軍に移して代わりに処置させると通告した。この通告によりヒトラーは粛清を実行するしかなくなった。またこの頃すでにヒンデンブルクの死が近いことは明らかだった。ヒンデンブルクの死後、ヒトラーは軍に忠誠を誓わせねばならず、そのためには軍が望むレーム以下突撃隊幹部の粛清が必要だった。ヒトラーはこの日に突撃隊の粛清を決意したという[91][92]

こうして1934年6月30日に行われた粛清事件「長いナイフの夜」において親衛隊はレーム以下突撃隊幹部の逮捕と処刑の実行部隊となった。親衛隊はこの「功績」によって、1934年7月20日付けのヒトラーの指令により突撃隊から独立した党内組織として認められた[93][94]

全ドイツ警察長官[編集]

内相ヴィルヘルム・フリックはヒムラーを嫌い、クルト・ダリューゲを警察指導者にしたがっていた。そのため1934年11月にはダリューゲがドイツ内務省第三局(Abteilung III)(警察局)の局長に任じられた[95]。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた[96]。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた[97]

そして1936年6月17日、ヒムラーは全ドイツ警察長官(Chef der Deutschen Polizei)に任じられた[98][99][100]。彼はこれを機に警察組織を統合・再編成し、一般警察業務を行う警察部署として秩序警察を発足させ、親衛隊大将ダリューゲを長官に任じた[101]。一方政治警察のゲシュタポ刑事警察保安警察として統合し、ハイドリヒをその長官に任じた[101]

さらに1937年11月13日には「親衛隊及び警察高級指導者」(Höherer SS und Polizeiführer、略称HSSPF)の職を新設してドイツの各地域に配置した。この職はヒムラーの親衛隊全国指導者と全ドイツ警察長官の地位をその地域において代行する者であった[102]

1939年9月27日にはハイドリヒの傘下にあったSDと保安警察を統合させて、国家保安本部(RSHA)を親衛隊内に設置させた[103]

強制収容所掌握[編集]

「長いナイフの夜」の後、すべての強制収容所は親衛隊の管轄となり、ヒムラーは、ダッハウ強制収容所の所長だったテオドール・アイケを全強制収容所監督官、親衛隊髑髏部隊(強制収容所看守部隊)総監に任命した[104]

突撃隊やゲーリングが創設した強制収容所はほとんどが閉鎖されていった[105]。代わりに1936年9月にザクセンハウゼン強制収容所[105]、1937年7月末にブーヘンヴァルト強制収容所[106]、1938年8月にマウトハウゼン強制収容所、1938年11月にフロッセンビュルク強制収容所、1939年5月にラーフェンスブリュック強制収容所が創設された[107]

ヒムラーが全ドイツ警察長官になると保護拘禁の範囲が拡大された。もともとは政治犯のみが保護拘禁の対象だったが、「常習的犯罪者」と「反社会分子」も保護拘禁されて強制収容所へ入れられるようになった[108]。なお戦前期には人種だけを理由として強制収容所に入れられるケースは基本的にはなかった。ユダヤ人がユダヤ人であるというだけで強制収容所に入れられるようになったのは戦中のことである[109]。ただし例外として1938年11月の「水晶の夜」事件で逮捕されたユダヤ人3万人は強制収容所に移送されている(水晶の夜の際に逮捕されたユダヤ人はほとんどが数週間にして釈放されている)[110][111]

企業経営[編集]

ヒトラー内閣発足以降、親衛隊はノルトラント出版社ドイツ土石製造有限会社(DEST)ドイツ装備製造有限会社(DAW)など、様々な企業経営も行っていた。海軍の主計将校だったオズヴァルト・ポール親衛隊本部の経済部門の部長に任じて、彼にこれらの企業の経営を任せた。親衛隊企業の労働力の多くは強制収容所の囚人をもって充てられ、アイケの強制収容所監視官の地位もポールの下に置かれていた。ヒムラーは親衛隊企業の中では磁器製造会社の経営に強く関心を示していた。同会社は彼が経営にちょくちょく口を出していたためか常に赤字で、会計士からも常に再編や廃業の勧告を受けていたが最後まで聞き入れず、経営を続けた[112]

工作活動[編集]

こうした警察権力掌握の過程の中で、親衛隊は国内外の様々な政治事件に暗躍した。戦争計画に批判的だった陸軍元帥ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防大臣と陸軍上級大将ヴェルナー・フォン・フリッチュ陸軍総司令官をスキャンダルで失脚させたり、海外でもソヴィエト連邦陸軍元帥ミハイル・トゥハチェフスキーを初めとする赤軍首脳部が粛清されるよう謀略工作を行った。またオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースの暗殺にも関与し、オーストリア・ナチス党によるクーデター計画を支援したが、これは失敗に終わった。

親衛隊の軍隊化[編集]

1933年3月17日にヒムラーはヒトラーをボディーガードする警護部隊の創設を命じられ、親衛隊の精鋭117名を選抜して「SS司令部衛兵班、ベルリン」(SS-Stabswache Berlin)を創設させた。指揮官にはヨーゼフ・ディートリヒを任じた[113]。この部隊は後に「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」(Leibstandarte SS Adolf Hitler、略号:LAH、LSSAH)の名を与えられ、戦時中には武装親衛隊(Waffen-SS)の最精鋭師団となる[113][114][115]。しかしディートリヒはこの部隊をヒトラーだけからの責任を負い、ヒムラーから切り離したした存在にしたがっており、そのため発足時から部隊の指揮権をめぐってヒムラーとディートリヒの間で争いがあった[116]

これに触発されたヒムラーは、SSの軍隊を欲しがるようになり、司令部衛兵班創設と同じ時期に自動車化された機動力を持ち、警察より強力な火力を備えた「政治予備隊」(Politische Bereitschaft)を創設させ、いくつかの親衛隊上級地区に配置した[117][118]アドルフ・ヒトラーも軍の枠組みにとらわれずに自由に動かせる「私軍」をほしがっていた。ナチ党の私兵部隊の突撃隊には反ヒトラー派も多く、ヒトラーの「私軍」になりうる余地はなかった。1934年6月末、国軍(Reichswehr)と争っていた突撃隊幹部は長いナイフの夜事件において粛清された。突撃隊の粛清にあたったのはヒムラーら親衛隊であり、この件で親衛隊は国軍の軍部から高い評価を得ることとなった。ヒトラーは親衛隊の中に軍隊を置くことを模索するようになった。国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは親衛隊が三連隊の軍隊を保有することを承認した[119]。これを受けてヒトラーは、1934年9月24日に三軍司令官に対して国軍をドイツ唯一の国防組織と認めつつ武装した親衛隊部隊を三連隊と一通信隊を置くことを通達した。この通達に基づき、設置されたのが親衛隊特務部隊であった[119]。特務部隊は戦時には陸軍の司令権限を認めつつ、平時にはヒムラーが指揮を執るとされた。特務部隊の扱いは軍隊に同等であり、特務部隊の隊員は給与支給帳(Soldbuch)と軍歴手帳(Wehrpaß)の所持を認められて軍人扱いを受けた。

こうして政治予備隊が1934年9月24日に親衛隊特務部隊(SS-VT)に再編されて軍隊化される運びとなった[118]

特務部隊の編成や訓練は国軍(1935年以降国防軍(Wehrmacht)と改称)の協力を得て進められた。1934年10月にはバイエルン州バート・トェルツに親衛隊の士官学校が創設され、さらに翌年にはブラウンシュヴァイクにも親衛隊士官学校が開設された[120]。特務部隊の軍事教練にはパウル・ハウサー(1932年まで国軍で中将をしていた人物で1934年から親衛隊に招かれていた)が大きな役割を果たし、ヒムラーの「政治的兵士」達を実戦に出せるレベルに叩き上げた[121][122]

1936年10月1日、ヒムラーは親衛隊特務部隊の管理のため、パウル・ハウサーを長とする親衛隊特務部隊総監部を創設させた[123]

戦時中[編集]

警察活動[編集]

1939年8月、ヒトラーからポーランド侵攻の口実を作るよう命じられたヒムラーは、ハイドリヒに計画を策定させた。こうして1939年8月31日にSDにより実行に移されることになるのがグライヴィッツ事件であった。この作戦は「ヒムラー作戦」と命名されていた。SD工作員アルフレート・ナウヨックスがポーランド軍人に成りすましてポーランドグライヴィッツ放送局を占拠し、反独演説を行った。この事件を口実に、ヒトラーは「いまやドイツとポーランドは戦争状態に入った」としてポーランドとの戦争を国会において宣言したのであった[124]

しかし大戦前期にヒトラーの信用を損なう事件もいくつか存在した。1939年11月8日、ヒトラーはビュルガーブロイケラーでミュンヘン一揆16周年記念演説を行ったが、この際にヒトラーが退席した後、時限爆弾の爆発で7人が死亡、63人が負傷する事件が発生。11月8日夜にスイスへ不法越境しようとしたゲオルク・エルザーが容疑者として浮上した。ヒトラーはエルザーの背後にイギリスがいると睨み、ヒムラーは背後関係の捜査を命じた。彼はヒトラーの期待にこたえるべく、自らがエルザーの所へ赴いて直々にエルザーの拷問を行っている。エルザーは爆弾犯が自分であることは認めたが、単独犯であると主張してイギリスの陰謀は否定した。ヒムラーはイギリスの陰謀立証に失敗し、ヒトラーから叱責を受けることとなった[125]

またヒムラーやSDのハイドリヒは、ルーマニアの「鉄衛団」を支持していたが、「鉄衛団」は1941年1月にイオン・アントネスクに対して反乱を起こす。ヒトラーや外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップはアントネスクを支持したが、SDはなおも「鉄衛団」を擁護し、ホリア・シマ以下その幹部を救出している。この一件はヒトラーの怒りに触れ、現地のSD将校は処分された[126]。リッベントロップはこれをSSの勢力拡大をとめる好機と見て1941年8月9日にヒムラーに協定を結ばせ、国家保安本部や警察随行官の通信文を大使や公使に目を通すことを認めさせ、SDの干渉に歯止めをかけようとした。さらにリッベントロップはSSとかつて敵対したSAの幹部を公使に続々と任命するようになった。しかしながら戦争が進むにつれ、外務省の役割は減っており、リッベントロップがヒムラーやSSの躍進を止めるには至らなかった[127]

1942年6月4日、国家保安本部長官兼ベーメン・メーレン保護領副総督を務めていたハイドリヒが、イギリスが送りこんできたチェコ人暗殺部隊に暗殺された。しばらくはヒムラーが国家保安本部長官職を兼務し、国家保安本部I局(人事局)局長ブルーノ・シュトレッケンバッハ親衛隊少将を長官代理に任命して国家保安本部長官の実務を担わせていたが、1943年1月からはヒトラーの同意も得て親衛隊大将エルンスト・カルテンブルンナーを後任に任じた[128]。1943年8月20日、ヒムラーはフリックに代わって内相に就任、名実ともにドイツ警察の支配者となった[128]

軍司令官として[編集]

1939年5月、ヒトラーは2万人の兵員限定をつけながらも親衛隊特務部隊の師団編成を認めた。ヒムラーは師団創設のため砲兵連隊の設立を急いだが、1939年9月のポーランド侵攻までに間に合わず、親衛隊特務部隊はこの戦争を連隊編成で参加した。ポーランド戦後に改めてヒトラーから師団昇格を認められた。特務部隊は1940年4月22日の親衛隊作戦本部の司令により親衛隊特務部隊は武装親衛隊(Waffen-SS)と名を変えた。武装親衛隊はどんどん拡張され、大戦を通じて38個師団90万の兵力を数えるまでに成長した。国防軍に比べると損害率や戦死者・負傷者が多かったが、ヒムラーはこの理由について「国防軍が困難な任務を親衛隊に与えるため」と説明していた[129]

武装親衛隊の兵員募集は親衛隊本部の長官である親衛隊大将ゴットロープ・ベルガーが主導的役割を果たした。ベルガーは国防軍と折り合いをつけながら兵員確保に励んだ。また国防軍の徴兵対象にないヒトラー・ユーゲントなどの若年層やドイツ系外国人なども盛んに集めた。やがて非ドイツ系の外国人も受け入れも開始した。ソ連との戦いを「反共十字軍」になぞらえて武装SSに勧誘した。ヒムラーは非ドイツ系外国人、特に東方諸民族の受け入れにはアレルギーがあったがベルガーに説得され、戦争の拡大とともに外国人の受け入れもやむなしとなった。武装親衛隊の中にはインド人で構成された部隊やボスニアイスラム教徒を中心に構成された師団まで存在した(第13SS武装山岳師団[130]

ドイツの戦況悪化とともに国防軍不信に陥ったヒトラーは、親衛隊に信頼を寄せるようになっていった。1944年2月14日には国防軍情報部(アプヴェーア)部長ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が失脚。ヒトラーはアプヴェーアの機能を国家保安本部第6局(国外諜報Ausland-SD、局長ヴァルター・シェレンベルク)の下に吸収させ、同局の軍事情報部とすることを認めた[131]

さらに1944年7月20日、ヒトラー暗殺計画の鎮圧に際してヒムラーは国内予備軍司令官の地位を授かった(実務は親衛隊大将ハンス・ユットナーが代行した)。この時から陸軍兵器局が中心に開発してきたV2ロケットの生産・運用も陸軍から親衛隊経済管理本部の手に移っている。親衛隊は国防軍に対して完全なる優位を確立した。

さらに1944年12月2日にヒムラーはオーベルライン軍集団司令官に就任し、西部戦線で指揮を執った。ヒムラーのオーベルライン軍集団はストラスブールまで数キロまで迫ったが、結局アメリカ軍の反撃にあってライン川の向こうへ撃退された。しかしヒトラーはオーベルライン軍集団でのヒムラーの指揮を評価し、1945年1月23日にヒムラーを東部戦線のヴァイクセル軍集団司令官に任じた。参謀総長ハインツ・グデーリアン上級大将はこの人事に反対したが、ヒトラーは強行した。ヒムラーは今度こそ戦勝報告をヒトラーにもたらそうとはりきり、予備軍や武装SS残存兵力をかき集め、またフェリックス・シュタイナーら著名な武装親衛隊将軍を招集した。ドイツ本土に迫る赤軍を迎え撃つが、すでにドイツ軍は消耗しきっており、しかも部隊指揮経験を持たないヒムラーはまともな作戦指揮が出来なかったため、ソ連軍にオーデル川を突破された。グデーリアンはヒムラー降ろしを急ぎ、結局、最後にはヒトラーも司令官の首を挿げ替えることに同意し、1945年3月20日、同軍集団の司令官職は陸軍大将ゴットハルト・ハインリツィにかえられた。この件でヒムラーの権威は大きく傷ついた[132]。ヒムラーの軍集団司令官就任はマルティン・ボルマンの陰謀であるとする説もある[133]

ヒムラーとホロコースト[編集]

開戦前から戦争初期にかけてヒムラー以下親衛隊はユダヤ人の国外追放を行っていた。1938年にオーストリアの「ユダヤ人移民局」の局長になったSDユダヤ人課のアドルフ・アイヒマンが注目され、1939年1月にはベルリン内務省内に「ユダヤ人移住中央本部」が設置されてアイヒマン方式が全国に拡大された。1939年10月7日にはヒムラーはドイツ民族性強化国家委員(Reichskommissar für die Festigung des deutschen Volkstums)に任命された[134][135]。この権限に基づき、彼は親衛隊の本部の一つとして「ドイツ民族性強化国家委員本部」(RKFDV)を設置し、親衛隊大将ウルリヒ・グライフェルトを本部長に任じた。アーリア人の支配民族思想に基いてヨーロッパ・ユダヤ人の東方への植民・強制移住政策を推し進めた。

1939年9月のポーランド侵攻後、国家保安本部は占領下ポーランドソ連占領地域にアインザッツグルッペン(特別行動部隊)を派遣してユダヤ人を含む反体制ポーランド住民を銃殺した。しかしながらこの時期に親衛隊がユダヤ人の絶滅を計画していたわけではないと見られている。ヒムラーも1940年5月に「ユダヤ人根絶のボルシェヴィキ的方法は信念として非ゲルマン的であるし、不可能である」と述べている[136]。ユダヤ人絶滅政策(ホロコースト)の決定はヒムラーではなくアドルフ・ヒトラーと考えられている。ヒトラーがホロコーストを決意したのは1941年夏であるといわれる[137][136]。しかしヒトラーの命令を受けて実際にホロコーストを組織したのはヒムラーと親衛隊である。

1941年6月にバルバロッサ作戦独ソ戦)が発動された後、国家保安本部はアインザッツグルッペンをソビエトロシアに進撃する国防軍に追随させ占領地のユダヤ系住民を大量虐殺した。この独ソ戦下のアインザッツグルッペンの活動はユダヤ人の絶滅を意図して行ったホロコーストの一部とみなされている。1941年8月、ヒムラーはポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所所長ルドルフ・フェルディナント・ヘスをベルリンに呼び出し、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを告げ、アウシュヴィッツを絶滅収容所と改築することを命じた。これを受けてヘスはアウシュヴィッツにガス室を設置させた[138][139]。さらにこの後、ポーランドにユダヤ人の殺戮だけを目的としたベウジェツ強制収容所ソビボル強制収容所トレブリンカ強制収容所の三大絶滅収容所が建設された。ユダヤ人はヨーロッパ各地からアウシュヴィッツをはじめとするポーランド東部の絶滅収容所に集められ、ガス室等で大量虐殺されるようになった。当時ゲシュタポのユダヤ人課課長になっていたアイヒマンがユダヤ人の列車輸送の手配および直接のユダヤ人狩り立てに深く関与している。

正式にユダヤ人絶滅が国家政策として定められたのは1942年1月20日、国家保安本部長官ハイドリヒがベルリンの高級住宅地にある邸宅で関係省庁の次官級を集めて行ったヴァンゼー会議であるとされる。この会議でユダヤ人問題の最終的解決について各官庁の分担範囲を決定したといわれる(一方、アインザッツグルッペンや絶滅収容所でのガス殺は1941年代にはすでに開始されていることから、この会議はゲーリングからユダヤ人問題の最終的解決の委任を受けていたハイドリヒがヒムラーのユダヤ人問題への口出しをけん制するために開いただけの会議であるなどという説もある[140]。ちなみに会議の出席者アイヒマンもこの会議開催にハイドリヒが自分の権限を誇示するための意味があったことを主張している[141]

一般的にヒムラーや親衛隊は無差別にユダヤ人を虐殺していたというイメージが付きまとうが、実際のところはそうではない。親衛隊経済管理本部長官であり、強制収容所運営の責任者であるオズヴァルト・ポールは一貫して強制収容所へぶち込んだユダヤ人の軍需産業への奴隷労働力としての使用を目指していた。労働できる者は絶滅政策の事実上の対象外として、過酷な強制労働に従事させられた。アウシュヴィッツ所長ルドルフ・ヘスもその回顧録に「アウシュヴィッツへ送られてくるユダヤ人は本来すべて抹殺されるはずであったが、ドイツ・ユダヤ人が最初に送られてきた頃にはすでに労働可能な者は選別して収容所の軍需目的に使用するようにという命令が出されていた」と書いている[142]総力戦体制が強まる中、強制収容所の奴隷労働力はナチスにとってますます重要になっていた。ヒムラーは強制収容所の囚人の死亡率を下げることを一貫して命じ続け、親衛隊経済管理本部もそれに努力していた[143]

一方、「労働不能」ユダヤ人は、ナチスにとって全く役に立たないばかりか、それでなくても悪かったドイツの食糧事情を無駄に悪化させる厄介な存在であった。そのため即時に絶滅対象としたのであった。戦時中に行われたユダヤ人絶滅政策とは基本的に「労働不能」と認定されたユダヤ人の絶滅政策であった[144]

ヒムラーやポールの命令を受けてアウシュヴィッツやマイダネク強制収容所でも「労働不能者」(=ガス室送り)と強制労働させる者の選別が行われていた。この選別にあたっては親衛隊軍医が大きな権限を持ち、ヨーゼフ・メンゲレはその典型として悪名高い[145]

ただし、飽くまでもヒムラーはナチズムの信奉者であり、ヒトラーのユダヤ人絶滅の意思は完遂するつもりであった。したがって労働に従事させる者もいずれは殺すつもりであった。1942年秋にはヒムラーがオットー・ゲオルク・ティーラック法相との会談で「労働を介した絶滅」という言葉を口にしたことはそれが端的に表していると言えよう[146]

ヒトラー暗殺計画[編集]

ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1972-109-18A, Berlin, Bendlerstraße, Waffen-SS-Männer.jpg
1944年7月21日、ヒムラーの命令でベルリンのベントラー街(国防省)を占拠した武装親衛隊

1944年7月20日午後0時40分過ぎ、東プロイセンラステンブルクにあった総統大本営ヴォルフスシャンツェ」の会議室において、ヒトラーが将校たちと会議中に参謀本部大佐クラウス・フォン・シュタウフェンベルク伯爵(国内予備軍参謀長)が仕掛けた時限爆弾が爆発した。将校や速記者に死亡者・負傷者がでたが、ヒトラーは軽傷を負うにとどまった(ヒトラー暗殺計画)。

この時ヒムラーは25キロ離れたマウルゼー湖畔のSS本部にいたが、午後1時頃に事件を知るとただちにラステンブルクの総統大本営へ急行し、わずか30分で到着した[147]

ヒムラーは総統大本営に到着後、SS隊員とともに捜査を開始した。会議室から一人姿を消したクラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が犯人であると確信し、ベルリンのSSフンベルト・アッハマー・ピフラーダー親衛隊上級大佐(de:Humbert Achamer-Pifrader)にシュタウフェンベルクの逮捕を命令した(しかしベントラー街にシュタウフェンベルクの逮捕に向かったピフラーダーの方が逆にシュタウフェンベルクにより身柄を押さえられてしまっている)。ヒトラーはシュタウフェンベルクの上官である国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将も何らかの形で謀反に関わっていると考え、ヒムラーを新たな国内予備軍司令官に任命し、ベルリンへ行くよう命じた。予備軍とはいえ、ヒムラーは念願の軍司令官の地位を手に入れたことになる[148]。午後5時頃にヒトラーを別れる際に「総統、後のことは私にお任せください」と述べている[149]

ヒムラーがベルリンに到着した7月21日明け方にはすでにシュタウフェンベルク大佐ら首謀者はベントラー街(de:Bendlerblock)(国防省)においてフロムの命令で銃殺されており、その遺体はフロムの指示で勲章や階級章や軍服などを付けたまま軍人として埋葬されていた。ヒムラーはただちに武装親衛隊を動員してベントラー街を占拠した。シュタウフェンベルク大佐らの遺体を掘り起こさせて勲章などを剥奪すると、その遺体を火葬させて灰は野原にばら撒いた。

ヒムラーは国家保安本部長官エルンスト・カルテンブルンナーに大々的な捜査・逮捕を命じた。カルテンブルンナーの指揮の下に捜査が進められ、最終的に5000人程が処刑され、数千人が強制収容所へ送られた。「長いナイフの夜」事件以来の大規模な政治犯の逮捕劇となった[150]

ヒムラーは一連の謀反の最大の鎮圧者となったが、ヒムラー自身が事前に計画を知っていながら、事件の発生を黙認した可能性が指摘されている[151]

暗殺計画実行直前の1944年7月17日、ゲシュタポはヒトラー暗殺計画の可能性があり、その計画を立てている者としてカール・ゲルデラー陸軍上級大将ルートヴィヒ・ベックの逮捕状を発給するようヒムラーに求めているが、彼は何故か拒否している。SDの某将校は「ヒムラーは表向き引き延ばし戦術をとっていた」と証言している。一旦実行に移させてから逮捕したほうがよいという判断だったのか、それともヒムラーがヒトラー暗殺を期待していたのかは今となってはわからないが、いずれにしてもこの暗殺計画は失敗におわり、その後のヒムラーはいつも通り反逆者の逮捕・処刑の実行者となった[151]

国防軍の将校たちが暗殺事件に関与していたことは国防軍の地位を下げることにつながった。それは親衛隊が国防軍に対して絶対的な優位を確立したことを意味した。同じ日にヒトラーがヒムラーを国内予備軍司令官に任じたこともこのことのだめ押しとなった[152]

戦争末期[編集]

講和交渉[編集]

大戦末期の1945年春、ヒムラーはドイツ勝利の確信を失っていた。これは専属マッサージ師フェリックス・ケルステンやSD第VI局(対外諜報)局長ヴァルター・シェレンベルクらとの会話から確認できる。ヒトラー政権が存続するためには、ソ連を除いた英米との講和が必要であると認識していた。

シェレンベルクの斡旋で1945年2月19日、訪独したスウェーデン赤十字社のフォルケ・ベルナドッテ伯爵とヒムラーが入院していたホーヘンリーヘン病院において初めて会見した。ベルナドッテは米英との和平のためには強制収容所の囚人の解放が良いと薦め、まずスカンジナビア系の強制収容所抑留者をスウェーデンに引き渡してほしいと求めた。しかしこの時ヒムラーは「もしその要求に応じたら、スウェーデンの新聞はでかでかと書くでしょうね。"戦犯ヒムラー、最後の土壇場で責任逃れ。今から免罪対策"とね。」と述べて拒否した[153]。しかしその後さらに戦況が悪化し、ヒムラーはついにアメリカとイギリスに対しては降伏しても構わないという心境に至り、米英軍とドイツ軍の残存兵力でもって協力してソ連と戦うことを望んだ。4月2日にヒムラーは再度ベルナドッテと面会した。ヒムラーは西部戦線における条件付き降伏を米英に提案してくれないかと求めた。ベルナドッテは「ヒムラーがヒトラーの後継者を名乗ること。ナチスを解体させて党員を配置換えすること。スカンジナビア系の強制収容所抑留者を釈放すること」などを条件として求め、ヒムラーはこれに応じた。その後もヒムラーとベルナドッテは4月20日と4月24日に面会して米英に対しての降伏に向けた調整を続けた[154][155]

1945年4月20日、最後の総統誕生日にヒムラーはベルリンの総統地下壕に入り、ヒトラーと面会した。しかし憔悴したヒトラーにはすでに期待しておらず、早々に地下壕を出ると、部分降伏に向けた工作を再開した。4月21日午前2時、ケルステンの地所でシェレンベルクとともにアメリカ政財界に強い影響力を持つ世界ユダヤ人会議の特使ノルベルト・マズアと極秘に面会し、アメリカ政府への執り成しを求めた。ヒムラーはマズアに「君たちユダヤ人と我々国家社会主義者は共に争いの斧を降ろす時である」などと述べた。マズアは親衛隊の側が一方的にユダヤ人に斧を振り降ろしていたにも関わらず何という言い草だと思いつつ、それでも幾らかの同胞の命を救うことができるかもしれないと考えてヒムラーとの交渉を続けた。マズアはスイスかスウェーデンに向かうことができる場所の強制収容所に収容されているユダヤ人について速やかに解放すること、それ以外の場所の強制収容所に入れられているユダヤ人についてはその強制収容所を無抵抗で連合軍に明け渡すまで人間的な待遇を与えることを条件として提示した。ヒムラーはそれを了承した[156]

ベルナドッテはアメリカ政府にヒムラーの西部戦線降伏提案を伝えていたが、4月29日、アメリカのトルーマン大統領は「部分降伏はありえず」として、正式に提案の拒絶を発表し[157]、ヒムラーは落胆した。しかもこの彼の活動は1945年4月28日、BBCのラジオ放送によって「無条件降伏を申し出た」という旨で暴露され、やがてヒトラーの知るところとなる[158]

解任[編集]

かねてからヒムラーとの間の連絡将校ヘルマン・フェーゲラインが亡命を企てて逮捕されたことや、ベルリンの戦いにおける武装親衛隊の不活発さが原因で彼に不信感を持っていたヒトラーは上記の報道を知って激怒した。彼はヒムラーの全官職を剥奪し、逮捕命令を出した。当時の彼の官職は親衛隊全国指導者、内務大臣、全ドイツ警察長官、国民突撃隊総司令官であった。

しかし当時の伝達機能の混乱により、ヒムラーの逮捕命令が伝達されたのはドイツ北部の指揮権を持っていた海軍総司令官カール・デーニッツの元に届いたものに限られた。デーニッツは逮捕命令を受領するが、命令にはヒムラー以外のドイツ北部の全反逆者の処置命令も附属していたために実行が困難なこと、また彼が依然として警察や親衛隊を掌握しており、その兵力が多かったために命令を無視している。

5月1日午前0時頃にヒムラーは親衛隊員たちを引き連れてフレンスブルク政府のデーニッツの元を訪れた。デーニッツは不測の事態に備えてUボートの水兵で周りを固めた。自身も銃を書類の下に隠し持っていたという。彼はここでヒトラーの電報をヒムラーに見せ、総統が死んだこと、みずからが後継者に指名されたこと、そしてヒムラーは解任されたことを告げた。電報を読んだ彼の顔は青ざめ、しばらく考えこんだ様子であったという。しかしすぐにデーニッツに祝福の言葉を述べ、みずからが次席としてデーニッツを支えたいと述べた。彼はこれを拒否したが、親衛隊や警察勢力の離反を警戒して結局シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の行政長官の地位を与えた[159][160]

しかし戦時中から米英において「ホロコーストの執行者」「強制収容所の支配者」として悪名高かったヒムラーは、降伏処理のために設立された臨時政府であるフレンスブルク政府にとっては邪魔な存在だった。5月6日17時頃にデーニッツはヒムラーと東方占領地域大臣アルフレート・ローゼンベルクらに解任を申し渡した。ヒムラーは首相代行フォン・クロージクと会談したが、結局デーニッツとの交渉を諦めた[161]

逃亡と死[編集]

ファイル:Himmler Dead.jpg
自殺直後のヒムラー

フレンスブルク政府を放逐されたヒムラーは5月20日に「野戦憲兵曹長ハインリヒ・ヒッツィンガー」として、髭を剃って眼帯を装着、ルドルフ・ブラントカール・ゲプハルトなどの側近たちと共にホルシュタインからエルベ川を超えて逃亡した。5月22日、ブレーマーフェルデハンブルクの間にあるバルンシュテット村のはずれでイギリス軍に拘束され、捕虜としてリューネブルクの捕虜収容所に送られた。

ヒムラーは何度も強制収容所を視察し、部下が実際に何をしているかを良く知っており、ユダヤ人迫害等の非人道的な行為故に戦後連合軍から糾弾されることを覚悟していた。そのため、敗戦間近になると部下に親衛隊の制服を国防軍の軍服に着替え、国防軍に潜り込んで逃亡するように命令していた。これが「忠誠こそ我が名誉」と若き親衛隊員を導いた親衛隊全国指導者の最後の命令となった。

ヒムラーは、イギリス軍の一兵卒の捕虜への粗末な扱いに耐えられなくなり、収容所所長に対して「私はハインリヒ・ヒムラーだ」と名乗った。さらに連合軍上層部との政治的交渉を求めた。所長は上層部に取り計らってみると回答したが、結局交渉は拒否された。翌5月23日、ヒムラーの身体検査が行われた。イギリス軍のエドウィン・オースティン曹長がヒムラーに長椅子を指して「これがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と全裸になる事を要求したが、これに対してヒムラーは「君は私が誰だか分かっているのかね」などと述べた。オースティンは「あなたはハインリヒ・ヒムラーだ。そしてこれがあなたの寝台だ。服を脱ぎなさい」と再度全裸になる事を要求した。ヒムラーとオースティンはしばらくじっと睨みあっていたが、先に目を逸らしたのはヒムラーの方だった。彼はおとなしく服を脱ぎはじめた[162]。軍医がヒムラーの身体を調べ、口の中を調べようと指を入れた時、ヒムラーは軍医の指にかみついた。そして奥歯に隠し持っていたシアン化カリウムのカプセルを噛み砕き倒れた。その場にいたイギリス軍兵士たちはすぐにヒムラーの身体を逆さにして毒を吐き出させようとした。ついで糸と針で舌を固定して催吐剤を使用して胃液を吐きださせようとしたが、約12分間苦しんだ後に死亡した[163]。自殺を防げなかった軍医は直後に「やられた」と口にしたという[162]。イギリス軍はヒムラーの遺体の写真を撮り、さらにデスマスクを作った後、彼の頭を切開して脳の一片を切り取って保存した[164]

遺体は1日放置され、イギリス軍の報告を受けて到着したアメリカ軍とソ連軍の士官の検死を受けた後、リューネブルクの森に埋められた[165][163]。埋葬後に墓石等は与えられなかったため、森のどこに埋められているのかは不明である[163]

家族[編集]

ファイル:Bundesarchiv Bild 146-1969-056-55, Heinrich Himmler mit Frau und Tochter Gudrun.jpg
左から娘グドルーン、妻マルガレーテ、ヒムラー。

1928年7月3日、ヒムラーはブロンベルクの地主の娘マルガレーテ・ボーデンと結婚している。マルガレーテは金髪碧眼の長身であり、彼が理想とする「ドイツ女性」であった。彼女は第一次世界大戦中に看護婦をしており、ベルリンで短い結婚生活をした後、父の資金で診療所をやっていた。しかしヒムラーより7歳も年上であり、しかもプロテスタントの女性であったので、カトリックの両親は結婚に大反対した。しかし彼は譲らず、両親を説得してとうとう結婚にこぎつけている[166][167]

1929年8月にマルガレーテとの間に一人娘グドルーン(Gudrun)を儲けた。ヒムラーはグドルーンを大変可愛がり、「Püppi(お人形さん)」と呼んでいた。彼はグドルーンを仕事場にもよく連れて行き、強制収容所の視察にも連れて行ったことがある。強制収容所視察の日の夜、グドルーンは日記にそのことを書いている[168]。一方マルガレーテは男の子の養子を一人迎えているが、ヒムラーはこの養子のことにはほとんど関心を持たず、グドルーンが生まれた後は妻マルガレーテからも興味をなくし、別居するようになった。

ヒムラーは1937年からヘトヴィヒ・ポトハスト(Hedwig Potthast)と愛人関係となっていた。ヘドヴィヒは1930年代半ばからヒムラーの個人スタッフの秘書となっていた女性だった。この女性との間に長男ヘルゲ(1942年誕生)と次女ナネッテ(1944年誕生)を儲けている[169]。ヘドヴィヒとの愛人関係が深まるとマルガレーテと離婚しようとしたが、グドルーンのことがあって結局中止した。

ヘトヴィヒの両親は、ヒムラーがヘドヴィヒに子供を身ごもらせながら結婚しようとせず、家すら用意しないことに憤慨していたが、私的生活は極めて質素であったヒムラーに愛人用の家を用意できる金はなかった。結局、党の金庫を握っているマルティン・ボルマンに頼んで党の費用から8000マルクを借り、ケーニヒス湖のベルヒテスガーデン=シェーナウBerchtesgaden-Schönau)にヘドヴィヒ用の住居を建てることにした。ここはボルマン夫人ゲルダ・ボルマンの家に近いため、ヒムラーとボルマンの友好を深める場ともなった[169]。なお愛人やその子供2人に関することは一般国民には秘匿されていた[170]

兄のゲプハルトは1939年から文部省に勤務して、工学出版物に関する課の課長となった。1944年には部長クラスに昇進。またゲプハルトは武装親衛隊にも入隊しており、親衛隊大佐まで昇進している。1945年には武装親衛隊監督官のポストに就任している。ミュンヘンにある欧州アフガニスタン協会にも勤務した。

弟のエルンストはベルリン放送局の主任技師を務めていたが、ベルリン攻防戦で戦死した。エルンストの孫、カトリン(Katrin Himmler)はユダヤ人と結婚し、祖父兄弟に関する著書がある。

ヒムラーの父ゲープハルトの異母兄であるコンラート・ヒムラー(Konrad Himmler)の孫にハンス・ヒムラー(Hans Himmler)がいる。彼はSS中尉であったが、酔って職務上の機密を漏らしたのを知ったヒムラーは彼を死刑にせよと命令した。その後減刑されてハンスは前線送りとなったが、親衛隊について否定的な発言があったとされて再度逮捕され、結局ダッハウ強制収容所で「同性愛者」として銃殺刑に処せられている。この件は、ヒムラーが親族であっても親衛隊の規律を乱す者は容赦しないことを示そうとしたのではないかと考えられている[171]

邪悪の代名詞となってしまった「ヒムラー」の名を背負ったグドルーンは、戦後ドイツ社会から差別的な扱いを受け、やがてナチス擁護の歴史修正主義者になった。後に結婚してブルヴィッツと改名したが、グドルーンは「嘘をついて新しい人生を始めることなどできません。私はずっとグドルーン・ヒムラ-であることに変わりはありません」と述べている。彼女はナチス戦犯の逃亡生活や捕まった後の弁護を支援する団体「静かなる助力」の活動に貢献した[172]

人物[編集]

  • アドルフ・ヒトラーからは「忠臣ハインリヒ」と呼ばれていた。エルンスト・レームからは「アンヒムラー(Anhimmler、熱狂的崇拝者の意)」と揶揄されていた[173]。また「お国のハイニ(Reiches Heini)」というあだ名もあった[174]。これらが美称にせよ蔑称にせよヒトラーと国から与えられた職務には忠実であるというのは、ヒムラーの共通した風評だった。
  • ヒムラーには、ラインハルト・ハイドリヒの操り人形であるとの風評があり、「4つのH(Himmlers Hirn heißt Heydrich、「ヒムラーの頭脳、すなわち、ハイドリヒ」の意)」というジョークが流れた[175]
  • 運動神経が鈍く、1936年にバート・テルツの親衛隊士官学校で国家体力検定を受けたヒムラーは、親衛隊全国指導者として銀章は取りたいと思い、上半身裸で走るほど気合いを入れたが、結局銅賞の受賞で終わった。彼はどうしても銀章が欲しくて銀章の受賞者であるカール・ヴォルフ(ヒムラーの副官)から彼を昇進させる代わりに銀章を譲り受けたという[176]。また親衛隊少将ヴァルター・シェレンベルクの回顧録によると1939年9月にポーゼンでヒムラーが列車を降りるための階段を踏み外して地面に長々と倒れてしまったという[177]。その後、取り巻きの親衛隊将官、将校たちはヒムラーの鼻眼鏡を探すのに苦労し、激昂した彼の怒声を聞きながら気まずい空気の中で歩き出す羽目になったという。ヴォルフは、ヒムラーと車両の中で長々と話して引きとめていたシェレンベルクが原因だとして彼に「君を恨むぞ」と言ったという[177]
  • 生来胃が弱く、若いころから胃痛に悩まされていたヒムラーは、自らの苦しみを緩和できるマッサージ師フェリックス・ケルステンを寵愛した。そのためケルステンはヒムラーを通じて親衛隊に隠然たる力を持つこととなった。ケルステンの息子の証言によるとエルンスト・カルテンブルンナーはケルステンを警戒し、道路を封鎖して彼の暗殺を図ろうとしたことがあるという。これを聞いたヒムラーは激怒し、カルテンブルンナーを呼び出して「もしケルシュテンの身に何かあった時はお前は24時間以内に死ぬ」と叱責したという[178]
  • ヒムラーは部下の親衛隊隊員に「強さ」を求める演説を何度も行った。ヒムラーと話しているとすぐに「強さ」の話が始まるのでヘルマン・ゲーリングはそれを「ヒムラーの発作」と呼んだ[179]。ヒムラーの「強さ」への渇望により、武装親衛隊の士官学校などでは過酷な演習が行われ、しばしば死者が発生した[179]。イギリス軍のコマンド部隊の訓練に匹敵する死亡者水準であったという[180]。ゲーリングはヒムラーから武装親衛隊の実弾演習の話を聞かされた時、「親愛なるヒムラー、私も空軍の降下訓練で同じことをやろうと思っているのだよ。パラシュートをつけて二度飛ばせ、三度目はパラシュート無しで飛ばすのだ」と皮肉ったという。ただ、ヒムラーがそれにどう反応したかは伝わっていない[179]
  • 自らの地味な容姿のせいか「見た目より中身は濃い」というプロイセンに伝わる言葉を愛し、親衛隊のスローガンに掲げている。
  • ヒムラーは、華美な生活を嫌い、権力を握っても私生活は極めて質素であった[181]1929年から給料を据え置いたといわれ、ランゲ・ウント・ゼーネ腕時計を買うのにケルステンから100ライヒスマルクの借金をしていたという[182]。「親衛隊全国指導者友の会de)」に財界から大量の献金があったが、ヒムラーは私腹を肥やすことなく、全て親衛隊の機密費と高官の経費に充てていたという[182]。「いつの日か貧しく死ぬことが私自身にとっては理想である」という言葉を残している[183]
  • ヒムラーは親衛隊の軍規、規律に反する行為を犯した隊員には異常なまでに厳しかった。そうした隊員に親衛隊の法廷が下した判決がヒムラーに報告されると彼はもっと厳しい罰を下すよう命じる事が多かった[179]。特に横領や命令されていない殺人など個人的犯罪は厳罰を以って処した[184]。1935年の親衛隊命令でも命令されていないのに個人的にユダヤ人を殺害することは禁じている[184]。ブーヘンヴァルト強制収容所所長カール・オットー・コッホ親衛隊大佐も横領と個人的殺人の容疑で逮捕されて処刑されている。これは殺人自体より、親衛隊の規律を乱している点がヒムラーにとっては問題であったためである[184]
  • ヒムラーはカトリック教育を受けたにも関わらず、一夫一妻制を嫌悪していた。「離婚の禁止や一人の配偶者を守れなどということはキリスト教会の不道徳な規定である。少子化不貞もキリスト教会のこの誤った教義のせいである」「一夫多妻制にすれば別の妻が刺激となって、もう一人の妻はあらゆる点で理想的女性になろうと努力するであろう。気性が荒かったり、体がぶよぶよした女性はいなくなるだろう」などと述べていた。また「戦場で勇敢に戦って戦死した者には美女二人が与えられる」と説いたイスラム教の預言者モハメッドをヒムラーは称えていた[185]
  • ヒムラーは動物には優しく、動物の保護やドイツの子供たちへの動物愛護教育を熱く論じていた[186]狩猟長官であるゲーリングの狩猟好きについて「ゲーリング、あの血に飢えた犬の畜生は動物と見れば手当たり次第に殺している。何も知らずにの端で草を食む、何の罪もない動物を撃ち殺すのがなぜ楽しいのか。それは正真正銘の虐殺だ」とケルステンに愚痴をこぼしている[187][188]。このヒムラーの動物への優しさは彼が「下等人種(ウンターメンシュ)de)」とした人間に対して行った虐殺とよく対比されるが、ヒムラーは下等人種について「破壊への意志、原始的な欲望、露骨な卑劣さを持っており、精神面においてどんな動物よりも低級である」と述べており、事実上、動物より下に位置づける価値観を持っていた[186]。また彼は菜食主義者であり、動物の肉は食さなかった。
  • ヒムラーの歴史観で一番大事な物は特定の人物でも社会階級でもなく「ゲルマン民族」であった。個人はすぐに死ぬ存在であるが、祖先から子孫へという民族の血の流れは悠久であり、不滅の物と考えていた。そのため祖先、家系の名誉のためには自決さえもいとわないという日本武士道には深く共鳴していた。ヒムラーは常にこれを親衛隊の思想の模範とすべきと考えており、「日本を見習え」とよく演説した[189]のほかにもローマ帝国プラエトリアニインドカースト制クシャトリア階級にも強い感銘を受けていた[190]
  • SD対外諜報部長官ヴァルター・シェレンベルク親衛隊少将によるとヒムラーの日本への関心はかなり強く、日本史にも精通していたという。結局実現しなかったが、親衛隊の士官候補生日本軍の士官候補生の交換留学も考えていたという[191]。また日本人がアーリア人種であることを立証しようと図り、戦争末期になってもルーン文字カナ文字の関連性についての調査に意見をしたりしていた[192]
  • 部下たちの残虐な処刑を視察してヒムラーの気分が悪くなったという証言が複数ある。

ヒムラーとオカルト[編集]

ヒムラーは、よく言えばロマンチスト、悪く言えば現実逃避的な性格だった。そのためファンタジックな話やオカルトによくのめりこんでいた。『インディ・ジョーンズ』などオカルトを題材とした映画でよくナチスが登場するのはヒムラーの影響といえる。

ヒムラーは1933年にオーストリアから来たオカルト的人物カール・マリア・ヴィリグートと知り合った。自らを「ウリゴート族の末裔でゲルマン賢者」であるとし、「遠い過去の記憶にアクセスできる」と称するこの男は、「ゲルマン民族の歴史は22万8000年前までにさかのぼり、その時代太陽は3つあり、地上に小人と巨人がいた」「イルミニズムがゲルマン民族の本来の民族宗教であり、キリスト教がそれを盗用した」「聖書はドイツ人が書いた」などと主張していた[196]。ヒムラーは彼のオカルトに大変のめりこみ、ヴィリグートを親衛隊に招き入れ、親衛隊人種及び移住本部に配属させた。ヴィリグートはいつでもヒムラーのオフィスに入ることを許され、ヒムラーに「過去の記憶」を披露して彼を満足させた[197]。ヒムラーが功績を認めた親衛隊員に授与する親衛隊名誉リングのデザインもヴィリグートに任せている[197]

ヒムラーは、ドイツの古代史研究機関として「アーネンエルベ」を創設した。アーネンエルベの探検隊は各地を探検し、チベットシュヴァルツヴァルトなど神秘的な場所で先史時代のアーリア人古代文明の存在を探そうとした。古城の廃墟にスパイを送り、キリストの聖杯を探させたこともあった[198]。ヒムラーは聖杯はキリスト教がキリスト教より古い歴史を持つ「古代アーリア宗教」から強奪した物であり、必ずドイツ人が見つけ出して取り戻さねばならないと思っていた[199]

東方から攻めよせたフン族の突撃を防いだ砦といわれる古城ヴェーヴェルスブルク城(Wewelsburg)にヒムラーは興味を引かれ、1934年7月に彼はこの城を手に入れた。1500年の時を超えて東方から攻めよせようとするソ連からヨーロッパを守る城であると、現在と過去を生きる男ヒムラーは期待していた。早速ヴィリグートらに改築工事を開始させた。第二次世界大戦のドイツの敗戦までにこの城に彼がつぎ込んだ資金は1300万ライヒスマルクにも及ぶ[# 8]。大食堂にはオーク製の巨大テーブルが置かれ、この城の「騎士」と認められた親衛隊幹部のネーム入りの椅子が並んでいた。ここでヒムラーや親衛隊幹部達は数時間も瞑想にふけっていた。地下室には石造りの台が12台置かれていて、親衛隊大将が死亡した際には遺骨がここに安置された。親衛隊名誉リングは、持主が親衛隊を離れるか死亡した場合にはヒムラーの手元に返され、ヴェーヴェルスブルク城に永久に保存されることとなっていた。他にも1万2000冊に及ぶ図書室、応接間、ヒムラーの客室、SS最高法廷もこの城に設置された。ヒトラーのヴェーヴェルスブルク城来訪を心待ちにしていた彼は、ヒトラーの部屋も作らせていたが、結局ヒトラーがヴェーヴェルスブルク城を訪れることはなかった[201][202]

またヒムラーは、スラブ民族の征服者であるザクセン王ハインリヒ1世を深く尊敬していた。スラブ民族(=現在のソ連)との戦いの事業を継承したい思いが背景にあった。ハインリヒ1世の命日の7月2日には必ずクヴェトリンブルク大聖堂の墓を詣でた。冷え切った真夜中の納骨堂でヒムラーは毎年敬虔にひざまづいていた。フェリックス・ケルステンによると、ヒムラーは7月2日の夜12時から瞑想を行い、ハインリヒ1世との霊的交信を始めたという。半睡状態のヒムラーが「ハインリヒ王の霊が重大なお告げを持って現れる」と述べ、続いて「このたびの王のおぼしめしは…」とお告げを語るのが恒例であった。ついには自身がハインリヒ1世の化身と信じるまでになったという[203]

ヒムラーは熱心なカトリックの家に生まれ、本人も若かりし頃は熱心なカトリックであったが、ナチ党の党活動をする内に徐々にキリスト教とは距離を置くようになっていた。そのため、親衛隊の隊員たちもキリスト教から切り離し、彼の異教的な思想に取り込むことをはかるようになった。婚姻内部規則で親衛隊隊員の結婚式はキリスト教会で行なうことを禁止した。またクリスマスを祝う習慣をやめさせるため、冬至祭を親衛隊の祭典とした。キリスト教ではなくSSを通じて神を信ずる者を彼は求めていたが、結局隊員達をキリスト教から切り離すことはできなかった。婚姻規則は隊員たちから不評を買ったため、結局、処分用件が緩和されるなどしていった。一般SSの三分の二は相変わらずキリスト教徒だった。雑多な人種がいた武装SSや髑髏部隊では比較的多く、武装SSの53.6%、髑髏部隊の69%が非キリスト教徒であったが、戦争中にはカトリックの司祭がそれぞれの武装親衛隊部隊に配属していた。武装親衛隊の将軍の中にはヴィルヘルム・ビットリッヒSS大将のように執務室にキリスト教の礼拝堂を置く者もいた[204]

ヒムラーと大指揮者[編集]

ベルリンフィルの首席指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを毛嫌いしていた。原因はフルトヴェングラーが逮捕された知人を釈放するように高圧的に要求したことにあった。元来、フルトヴェングラーは偉そうな官僚に対して喧嘩をふっかける傾向があり、この時も、ヒムラーの恐ろしさを知らず、単なる木端役人と思い込んでいた。ヒムラーは後々までも根に持ち、反社会的人物と見なし、収容所で抹殺する機会を執拗に狙っていた。だが、フルトヴェングラーの利用価値を重視するヒトラーやゲッベルスの反対もあり、流石のヒムラーも逮捕に踏み切れなかった。また、シュペーアなどの一部の心ある指導者はフルトヴェングラーに「あなたはヒムラーに狙われているから、早く亡命しなさい」と再三にわたり警告している。ヒトラーの影響力が弱体化し敗戦が目前となった1945年2月、ヒムラーはウイーン滞在中のフルトヴェングラーの逮捕命令を出すが、フルトヴェングラーは間一髪でスイスに亡命した。[205]

語録と人物評[編集]

q:ハインリヒ・ヒムラー を参照

ヒムラーを演じた人物[編集]

その他[編集]

  • ドイツ以外の国にも、ヒムラーのように独裁者の個人的信任を背景に政治警察を一手に任された政治家は少なくない。こうした者はしばしば「ヒムラー」と形容されることがある。ソ連ラヴレンチー・ベリヤ中華人民共和国康生などは、「眼鏡の小男」という特徴までヒムラーに良く似ていた。スターリンは米英首脳にベリヤを「うちのヒムラーです」と冗談交じりに紹介している。
  • 映画ヒトラー 〜最期の12日間〜』ではウルリッヒ・ネーテンが演じている。憔悴しきったヒトラーを影で罵倒し、副官にまで「いまさら禁欲的な菜食主義者に期待しても仕方ないだろう」と酷評されているが、史実ではそのヒムラーも菜食主義者だった。実際の出演は映画冒頭のみでネーデンも短い撮影とセリフの消化に苦労したことをコメントしているが、その後のシーンでも毒薬カプセル・副官処刑など総統地下壕の崩壊に影を落とす存在として描かれている。なおネーデンは後年の1944年末を舞台とした別の映画『わが教え子、ヒトラー』でもヒムラーを演じている。

注釈[編集]

  1. ハルガーデンはナチ党政権誕生と共にアメリカへ逃れた。ヒムラーは後に同級生のハルガーデンのことを「ユダヤの虱」と呼んで馬鹿にした[14]
  2. 近眼の者は海軍士官になれなかった[9]
  3. しかしヒムラーは親衛隊全国指導者就任後にこの経歴を詐称するようになり、『大ドイツ帝国国会便覧』などの公式履歴にも第一次世界大戦において西部戦線へ出征したかのように記している[24]
  4. 同様に決闘で顔に傷を入れている人物にオットー・スコルツェニー親衛隊大佐ルドルフ・ディールス親衛隊大佐がいる
  5. 彼の日記は、戦後ヒムラーの別荘からアメリカ軍兵士が発見し、アメリカ軍将校が記念品として故郷へ持ち帰っていた。その後、この将校は歴史家から勧められて日記をフーバー研究所へ預けた。日記はヒムラーの若き日の人格形成についての重要な資料となっている。日記は規格の異なる帳面6冊からなる。1冊目は1914年8月23日から1915年9月26日までと断片的に速記で書かれた1916年代の事柄が記されている。2冊目は1919年から1920年2月2日まで。身元不明な女性の写真数枚、スケートリンクの切符1枚、日付の入ったギターリボン、未使用の劇場入場券1枚が挿んである。3冊目は1921年11月1日から12月12日まで。残る3冊には1922年1月12日から7月6日までと1925年2月11日から25日までの記載がある[28]
  6. 1921年の日記にケルンベルガーなる老女の家にパンを置いていったことの記述がある。詳しくは語録の項目を参照
  7. 1921年11月23日付けの彼の日記にペルー移住に関する記述がある。詳しくは語録の項目を参照
  8. 読売新聞2004年12月18日夕刊によると1ライヒスマルクは2004年の換算で約2100円であるという[200]。したがって1300万ライヒスマルクとは273億ほどであろうか。
  9. ロナルド・レイシーはインディ・ジョーンズ シリーズの第一作「レイダース/失われたアーク《聖櫃》」でもゲシュタポ・トート役で出演している。

出典[編集]

  1. 『武装SS前史I』、p.128
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  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 クノップ(2001年)、上巻p.158
  4. 4.0 4.1 4.2 グレーバー、p.8
  5. 5.0 5.1 5.2 Katrin Himmler, p.31
  6. Katrin Himmler, p.24
  7. Katrin Himmler, p.30
  8. Manvell,Fraenkel, p.1
  9. 9.0 9.1 ヘーネ、p.40
  10. 松永、p.10
  11. Katrin Himmler, p.42
  12. 12.0 12.1 クノップ(2001年)、上巻p.156
  13. 13.0 13.1 クノップ(2003年)、p.83
  14. ヘーネ、p.45
  15. Manvell,Fraenkel, p.2
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 16.5 16.6 クノップ(2001年)、上巻p.160
  17. 谷、p.70
  18. Katrin Himmler, p.50
  19. Katrin Himmler, p.51
  20. ヴィストリヒ、p.199
  21. 21.0 21.1 21.2 21.3 ヘーネ、p.41
  22. クノップ(2001年)、上巻p.161
  23. 松永、p.105
  24. クノップ(2001年)、上巻p.160ヘーネ、p.41
  25. Katrin Himmler, p.57
  26. 26.0 26.1 ヘーネ、p.42
  27. 27.0 27.1 27.2 グレーバー、p.20
  28. グレーバー、p.10
  29. 29.0 29.1 グレーバー、p.21
  30. 30.0 30.1 30.2 クノップ(2001年)、上巻p.167
  31. 31.0 31.1 ヘーネ、p.46
  32. 32.0 32.1 グレーバー、p.25
  33. 森瀬繚・司史生、p.200
  34. ヘーネ、p.53-54
  35. 谷、p.71
  36. テーラー,ショー, p.231
  37. グレーバー、p.32
  38. 38.0 38.1 38.2 クノップ(2001年)、上巻p.168
  39. グレーバー、p.27
  40. ヘーネ、p.48
  41. グレーバー、p.28
  42. 谷、p.72
  43. クノップ(2003年)、p.94
  44. 44.0 44.1 桧山、p.166
  45. 45.0 45.1 山下(2010年)、p.39
  46. 46.0 46.1 46.2 46.3 『武装SS前史I』、p.34
  47. クランクショウ、p.16
  48. グレーバー、p.37
  49. 谷、p.73
  50. ヘーネ、p.56-57
  51. Katrin Himmler, p.123
  52. グレーバー、p.38
  53. 谷、p.74
  54. ヘーネ、p.57
  55. 55.0 55.1 ヘーネ、p.64
  56. 56.0 56.1 56.2 山下(2010年)、p.43
  57. 57.0 57.1 グレーバー、p.61
  58. グレーバー、p.62
  59. 阿部、p.168-169
  60. 阿部、p.172
  61. 桧山、p.169
  62. ヘーネ、p.175-176
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  71. 71.0 71.1 グレーバー、p.67
  72. 72.0 72.1 桧山、p.259
  73. lexikon der wehrmacht
  74. 大野、p.23
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  82. 『武装SS前史I』、p.114
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  85. 85.0 85.1 ヘーネ、p.102
  86. 86.0 86.1 86.2 ヘーネ、p.104
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  116. 『武装SS前史I』、p.144
  117. スティン、p.42
  118. 118.0 118.1 山下(2010年)、p.163
  119. 119.0 119.1 芝、p.30
  120. 『武装SS ナチスもう一つ暴力装置』30ページ
  121. 芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)30ページ
  122. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)430ページ
  123. スティン、p.46
  124. 『ヒトラーの秘密警察』68ページ
  125. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)285ページ
  126. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)286ページ
  127. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)288ページ
  128. 128.0 128.1 大野英二著『ナチ親衛隊知識人の肖像』(未來社)288ページ
  129. 芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)60ページ
  130. 芝健介著『武装SS -ナチスもう一つの暴力装置-』(講談社選書メチエ)第五章
  131. 『ヒトラーの秘密警察』221ページ
  132. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)538ページ
  133. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)532ページ
  134. 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』88ページ
  135. 『欧州戦史シリーズVol.17 武装SS全史1』119ページ
  136. 136.0 136.1 ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)319ページ
  137. 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』99ページ
  138. 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』153ページ
  139. 『ヒトラーの共犯者 上』195ページ
  140. 『ヒトラー全記録』535ページ
  141. ヨッヘン・フォン・ラング編『アイヒマン調書 -イスラエル警察尋問録音記録-』(岩波書店)76ページ
  142. 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』106ページ
  143. 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』159ページ
  144. 『ナチズムとユダヤ人絶滅政策 -ホロコーストの起源と実態-』123ページ
  145. 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』158ページ
  146. 長谷川公昭著『ナチ強制収容所 -その誕生から解放まで-』188ページ
  147. ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)128ページ
  148. ロジャー・マンベル著『ヒトラー暗殺事件 世界を震撼させた陰謀 第二次世界大戦ブックス31』(サンケイ出版)148ページ
  149. 『ナチス親衛隊』228ページ
  150. 『ナチス親衛隊』229ページ
  151. 151.0 151.1 『ヒトラーの共犯者 上』204ページ
  152. 『ナチス親衛隊』230ページ
  153. 『ナチス親衛隊』235ページ
  154. 『ナチス親衛隊』236ページ
  155. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版)550ページ
  156. クノップ(2001)、p.205-207
  157. 『ナチス親衛隊』258ページ
  158. 阿部良男著『ヒトラー全記録 -20645日の軌跡-』(柏書房)646ページ
  159. 『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)557ページ
  160. 『ナチス親衛隊』259ページ
  161. グイド・クノップ著『ヒトラーの共犯者 上 -12人の側近たち-』(原書房)209ページ
  162. 162.0 162.1 クノップ(2001)、p.211
  163. 163.0 163.1 163.2 クノップ(2001)、p.212
  164. クノップ(2003)、p.143
  165. 『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)558ページ
  166. 『ナチス親衛隊』37ページ
  167. 『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)56ページ
  168. 『ヒトラーの親衛隊』125ページ
  169. 169.0 169.1 ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)409ページ
  170. 『ヒトラーの親衛隊』130ページ
  171. 『ヒトラーの親衛隊』110ページ
  172. 『ヒトラーの親衛隊』417ページ
  173. 『ヒトラーの共犯者 上』171ページ
  174. 『ヒトラーの共犯者 上』178ページ
  175. 『ヒトラーの共犯者 上』187ページ
  176. 『武装SS前史I』、p.135
  177. 177.0 177.1 シェレンベルク、p.53
  178. 『ヒトラーの共犯者 上』191ページ
  179. 179.0 179.1 179.2 179.3 クノップ(2003年)、p.109
  180. テーラー,ショー, p.119
  181. クノップ(2001年)、上巻p.58
  182. 182.0 182.1 山下(2010年)、p.58
  183. クノップ(2001年)、上巻p.152
  184. 184.0 184.1 184.2 山下(2010年)、p.158
  185. クノップ(2001)、p.183-184
  186. 186.0 186.1 クノップ(2001年)、上巻p.194
  187. クノップ(2003年)、p.125
  188. クランクショウ、p.26-27
  189. 『ヒムラーとヒトラー -氷のユートピア-』123ページ
  190. 『ヒトラーの親衛隊』90ページ
  191. シェレンベルク、p.188
  192. クランクショウ、p.19
  193. 193.0 193.1 『ナチス親衛隊』200ページ
  194. 『ヒトラーの秘密警察 ゲシュタポ 恐怖と狂気の物語』(原書房)144ページ
  195. 『ヒトラーの親衛隊』123ページ
  196. クノップ(2003年)、p.113
  197. 197.0 197.1 クノップ(2003年)、p.114
  198. クノップ(2003年)、p.110
  199. バトラー(2006年)、p.34
  200. 山下(2010年)、p.627
  201. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)158ページ
  202. 『ヒトラーの親衛隊』116ページ
  203. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)160ページ
  204. ハインツ・ヘーネ著『髑髏の結社 SSの歴史』(フジ出版社)162ページ
  205. 中川右介『カラヤンとフルトヴェングラー』(幻冬舎新書022)118~125ページ

外部リンク[編集]


ヒトラー内閣1933年1月30日1945年4月30日
国家元首 パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領(1934年8月2日に死亡。以降大統領位は空位だが、ヒトラーが国家元首の地位を吸収した)
首相 アドルフ・ヒトラー総統指導者首相
閣僚 フランツ・フォン・パーペン副首相 - コンスタンティン・フォン・ノイラート外務相 - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務相 - ヴィルヘルム・フリック内務相 - ハインリヒ・ヒムラー内務相 - ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク財務相 - アルフレート・フーゲンベルク経済相 - クルト・シュミット経済相 - ヒャルマル・シャハト経済相 - ヴァルター・フンク経済相 - ヘルマン・ゲーリング航空相 - フランツ・ゼルテ労働相 - フランツ・ギュルトナー司法相 - フランツ・シュルクベルガー司法相 - オットー・ゲオルク・ティーラック司法相 - ヴェルナー・フォン・ブロンベルク国防相 - ヴィルヘルム・カイテル国防軍総司令部総長 - パウル・フォン・エルツ=リューベナッハ運輸相兼郵政相 - ユリウス・ドルプミュラー運輸相 - ヴィルヘルム・オーネゾルゲ郵政相 - リヒャルト・ヴァルター・ダレ食糧相 - ヘルベルト・バッケ食糧相 - ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相 - ベルンハルト・ルスト教育相 - フリッツ・トート軍需相 - アルベルト・シュペーア軍需相 - アルフレート・ローゼンベルク東方担当相 - カール・ヘルマン・フランクベーメン・メーレン保護領担当相 - ハンス・カール宗教相 - ヘルマン・ムース宗教相 - オットー・マイスナー無任所相 - ハンス・ハインリヒ・ラマース無任所相 - ルドルフ・ヘス無任所相 - エルンスト・レーム無任所相 - ハンス・フランク無任所相 - アルトゥル・ザイス=インクヴァルト無任所相 - マルティン・ボルマン無任所相
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)
思想 ナチズム - 指導者原理 - アーリア人至上主義 - 反共主義 - 反ユダヤ主義 - 民族主義 - 支配人種 - 権威主義 - 民族共同体 - 血と土 - 生存圏 - 第三帝国 - 強制的同一化
総統 アドルフ・ヒトラー
後継指名者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング
全国指導者 フランツ・クサーヴァー・シュヴァルツ - ヴァルター・ブーフ - マックス・アマン - ヨーゼフ・ゲッベルス - オットー・ディートリヒ - マルティン・ボルマン - フィリップ・ボウラー - ロベルト・ライ - ハンス・フランク - リヒャルト・ヴァルター・ダレ - ヴィルヘルム・フリック - コンスタンティン・ヒールル - ヴィルヘルム・グリム - バルドゥール・フォン・シーラッハ - アルフレート・ローゼンベルク - カール・フィーラー - フランツ・フォン・エップ - ハインリヒ・ヒムラー - エルンスト・レーム - ヴィクトール・ルッツェ - アドルフ・ヒューンライン
突撃隊幹部 フランツ・プフェファー・フォン・ザロモン - エルンスト・レーム - エドムント・ハイネス - ヴィクトール・ルッツェ - ヴィルヘルム・シェップマン - Category:突撃隊隊員
親衛隊幹部 ハインリヒ・ヒムラー - ラインハルト・ハイドリヒ - エルンスト・カルテンブルンナー - クルト・ダリューゲ - カール・ヴォルフ - オズヴァルト・ポール - ゴットロープ・ベルガー - ハンス・ユットナー - Category:親衛隊将軍
武装親衛隊幹部 ヨーゼフ・ディートリッヒ - パウル・ハウサー - フェリックス・シュタイナー - テオドール・アイケ - ヘルベルト・オットー・ギレ - ヴィルヘルム・ビトリッヒ - フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガー - ヴァルター・クリューガー
初期の幹部 アントン・ドレクスラー - ディートリヒ・エッカート - マックス・エルヴィン・フォン・ショイブナー=リヒター - ゴットフリート・フェーダー
ナチス左派 グレゴール・シュトラッサー - オットー・シュトラッサー - ヨーゼフ・ゲッベルス
主な支持者 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
草創期 ドイツ労働者党 - 25カ条綱領 - ミュンヘン一揆 - バンベルク会議 - シュテンネスの反乱 - 権力掌握
ナチス・ドイツ ヒトラー内閣 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - アンシュルス - チェコスロバキア併合
第二次世界大戦 T4作戦 - ホロコースト - ヒトラー暗殺計画 - ヒトラーの死 - 零時
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 戦う民主主義
組織 総統 - 全国指導者 - 突撃隊 - 親衛隊 - 武装親衛隊 - 大管区 - 帝国大管区 - 国外大管区 - RSD - 国家社会主義航空軍団 - 国家社会主義自動車軍団 - 国家社会主義女性同盟 - ヒトラーユーゲント - ドイツ女子同盟 - アドルフ・ヒトラー・シューレ - 国家労働奉仕団 - ドイツ労働戦線 - 国家社会主義公共福祉
シンボル ハーケンクロイツ - ビュルガーブロイケラー - 褐色館 - 総統官邸 - ベルリン・スポーツ宮殿 - ベルクホーフ - ニュルンベルク党大会 - 国家党大会広場 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - 旗を高く掲げよ - 突撃隊は行進する - 意志の勝利 - オリンピア - 血染めの党旗
書籍・新聞 我が闘争 - 二十世紀の神話 - フェルキッシャー・ベオバハター - デア・アングリフ - ダス・シュヴァルツェ・コーア - シュテュルマー
付随用語 ヴェルサイユ条約 - 背後の一突き - 退廃芸術 - シオン賢者の議定書 - ファシズム - 枢軸国 - カール・ハウスホーファー - ハンス・ギュンター
関連団体 ドイツ義勇軍 - ゲルマン騎士団 - エアハルト旅団 - トゥーレ協会 - ドイツ闘争連盟 - 黒色戦線 - オーストリア・ナチス - ズデーテン・ドイツ人党
関連項目 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 第二次世界大戦 - 連合軍軍政期 (ドイツ) - ネオナチ
ナチス・ドイツ
1933 - 1938 ヒトラー内閣 - ナチ党の権力掌握 - ドイツ国会議事堂放火事件 - 全権委任法 - 四カ年計画 - 長いナイフの夜 - ドイツ再軍備宣言 - ラインラント進駐 - ベルリンオリンピック
1938 - 1939 ブロンベルク罷免事件 - 水晶の夜 - アンシュルス - ミュンヘン会談 - チェコスロバキア併合 - ポーランド侵攻
第二次世界大戦 西部戦線 - 独ソ戦 - 北アフリカ戦線 - バルカン半島の戦い - ヒトラー暗殺計画 - ベルリンの戦い - アドルフ・ヒトラーの死 - フレンスブルク政府
第二次世界大戦後 ニュルンベルク裁判 - ニュルンベルク継続裁判 - 非ナチ化 - 領域の変化
総統 アドルフ・ヒトラー
ナチ党指導者 ルドルフ・ヘス - ヘルマン・ゲーリング - ヨーゼフ・ゲッベルスアンサイクロペディア) - ハインリヒ・ヒムラー - ロベルト・ライ - ヨアヒム・フォン・リッベントロップ - アルベルト・シュペーア - マルティン・ボルマン
政治家 パウル・フォン・ヒンデンブルク - フランツ・フォン・パーペン - ヒャルマル・シャハト - コンスタンティン・フォン・ノイラート
ナチ党組織 大管区 - 大管区指導者 - 全国指導者 - 親衛隊 - 突撃隊
政府組織 国家弁務官 - 国民啓蒙・宣伝省 - ドイツ航空省 - ゲシュタポ - 国家保安本部 - 秩序警察 - 保安警察
国民組織 ヒトラーユーゲント - ドイツ労働戦線 - 歓喜力行団
思想用語 指導者原理 - 強制的同一化 - 民族共同体 - 支配人種 - 退廃芸術 - 生存圏 - 血と土 - 積極的キリスト教
分野別項目 ナチズム - 機構 - 経済 - 農業と農政 - 軍事 -プロパガンダ - 人種政策 - 女性政策 - 建築 - 芸術 - 宗教 - 勲章 - 映画 - 動物保護 - 反タバコ運動 - 戦時下 - 略奪 - 強制労働 - 反ナチ運動
軍事 再軍備 - 国防軍最高司令部 - ドイツ国防軍 - 陸軍 - 海軍 - 空軍 - 武装親衛隊 - 国民突撃隊 - ヴェアヴォルフ - 電撃戦 - トート機関 - ジークフリート線 - 大西洋の壁 - 清廉潔白な国防軍 - アルプス国家要塞 - 国防軍の戦争犯罪 - ソ連軍捕虜に対する犯罪
国際関係 ライヒスコンコルダート - 英独海軍協定 - 鋼鉄協約 - 中独合作 - 枢軸国 - 防共協定 - 三国条約 - ベーメン・メーレン保護領 - ポーランド総督府 - ヴィシー政権 - 独立スロバキア - 東部占領地域 - クロアチア独立国 - セルビア救国政府 - イタリア社会共和国 - パンツァーファウスト作戦 - ハンガリー国 - 占領地 - 東部総合計画
関連項目 総統官邸 - 世界首都ゲルマニア - ナチ党党大会 - ナチス式敬礼 - ハーケンクロイツ - 旗を高く掲げよ - メフォ手形 - ホスバッハ覚書
迫害 強制収容所 - ホロコースト - 同性愛者迫害 - T4作戦 - ポライモス - 劣等人種 - 生きるに値しない命 - ヴァンゼー会議 - アインザッツグルッペン - 人体実験 - 焚書
反ナチ運動 黒いオーケストラ - 白いバラ - 告白教会 - 赤いオーケストラ - コンスル
関連項目 Portal:第三帝国 - 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - ヴァイマル共和政 - 連合軍軍政期 (ドイツ)