マザー・テレサ

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マザー・テレサMother Teresa、本名アグネス・ゴンジャ・ボヤジュ(Agnesë Gonxhe Bojaxhiu)、1910年8月27日 - 1997年9月5日)はカトリック教会修道女にして修道会神の愛の宣教者会」の創立者である。

「マザー」は指導的な修道女への敬称であり、「テレサ」は修道名である。カトリック教会の福者コルカタ(カルカッタ)で始まったテレサの貧しい人々のための活動は、後進の修道女たちによって全世界に広められている。

生前からその活動は高く評価され1973年テンプルトン賞1979年ノーベル平和賞1980年バーラ・ラトナ賞(インドで国民に与えられる最高の賞)など多くの賞を受けた。1996年にはアメリカ名誉市民に選ばれている(アメリカ名誉市民はわずか6人しかいない)。2003年10月19日、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。

生涯[編集]

カルカッタの修道女[編集]

マザー・テレサことアグネス・ゴンジャ・ボヤジュはオスマン帝国領のコソボ・ウシュクブ(現代のマケドニアスコピエ)でアルバニア人の家庭に生まれた。父は実業家で、彼女は3人の子供たちの末っ子であった。両親はマケドニア地方に住むアルバニア人のカトリックであったがアルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったことを考えると珍しい家族であった。

アグネスの幼少時代についての記録はほとんどないが小さいころから聡明な子で12歳の時には将来、インドで修道女として働きたいという望みを持っていたといわれる。18歳のとき、聖座の許可を得たアグネスは故郷のスコピエを離れアイルランド系の修道会であるロレト修道女会に入ってカルカッタ(現・コルカタ)へと赴くことになった。ロレト修道女会は女子教育を行う修道会であった。アグネスはダブリンで基礎教育を受けると修練女として1931年にインドのダージリンに赴いた。初誓願のときに選んだ修道名がテレサであった。この名前はリジューのテレーズからとっている。1937年に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになった。

1929年から1947年までテレサはカルカッタの聖マリア学院で地理を教え、1944年には校長に任命されていた。上流階級の子女の教育にあたりながら、テレサの目にはいつもカルカッタの貧しい人々の姿が映っていた。彼女自身の言葉によると1946年、汽車に乗っていた際に「最も貧しい人の間で働くように」という啓示を受けたという。彼女は修道院を離れて活動を行う許可を求めたがバチカンの修道会管轄庁などカトリック教会の上層部は慎重に評価を行おうとし、すぐには彼女の活動に対する認可を与えなかった。それでもテレサは自分の信じる道を進もうと決意していた。

1948年、ようやく教皇・ピウス12世からの修道院外居住の特別許可が得られた。テレサは修道院を出て、カルカッタのスラム街の中へ入っていった。彼女はインド女性の着る質素なサリーを身にまとい、手始めに学校に行けないホームレスの子供たちを集めて街頭での無料授業を行うようになった。やがて彼女のもとに聖マリア学院時代の教え子たちがボランティアとして集まり始め、教会や地域の名士たちからの寄付が寄せられるようになった。

神の愛の宣教者会の創立[編集]

1950年から修道会設立の許可を得た。これが「神の愛の宣教者会」である。テレサによれば、同会の目的は「飢えた人、裸の人、家のない人、体の不自由な人、病気の人、必要とされることのないすべての人、愛されていない人、誰からも世話されない人のために働く」ことであった。テレサは修道会のリーダーとして「マザー」と呼ばれるようになる。

インド政府の協力でヒンズー教の廃寺院をゆずりうけたテレサは「死にゆく人の家」というホスピス施設を開設した。以降、ホスピスや児童養護施設を開設していくがケアする相手の状態や宗派を問わないテレサたちの活動は世界から関心を持たれ、多くの援助が集まった。1960年代までに「神の愛の宣教者会」の活動は全インドに及ぶようになった。さらに1965年以降、教皇・パウロ6世の許可によってインド国外での活動が可能になった。インド以外で初めて宣教女が派遣されたのは南米・ベネズエラであった。以後、修道会は全世界規模で貧しい人々のために活躍するようになる。

世界のマザー・テレサ[編集]

テレサの活動はカトリック教会全体に刺激を与え、「神の愛の宣教者修道士会」(1963年)や「神の愛の宣教者信徒会」などが次々に設立されていった。1969年、アメリカ人のマルコム・マゲッリッジen:Malcolm Muggeridge)が撮ったドキュメンタリー映画『すばらしいことを神様のために』(Something Beautiful for God)および同名の書籍によってテレサの活動はアメリカのみならず、全世界で知られるようになった。この作品の取材をする中でマゲッリッジはテレサの姿に強い感銘を受け、後にカトリック教徒になっている。

1971年、教皇・パウロ6世は自らが制定した勲章「教皇ヨハネ23世平和章」の最初の受章者としてテレサを選んだ。これを皮切りに多くの賞がテレサに与えられることになる。ケネディー賞(1971年)、シュバイツァー国際賞(1975年)、アメリカ合衆国大統領自由勲章1985年)、アメリカ上院議会金賞(en:Congressional Gold Medal1994年)、アメリカ合衆国名誉市民権(1996年)、これらにくわえて数多くの大学の名誉学位を受けた。

こういった賞の中でもっとも有名なものはもちろん1979年に受けたノーベル平和賞であろう。テレサは受賞者のための晩餐会の出席は断ったが、賞金192,000ドルはカルカッタの貧しい人々のためにうけとった。賞金を受け取ったとき「このお金でいくつのパンが買えますか」といったと言う。そのときのインタビューの中で「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサの答えはシンプルなものであった。「家に帰って家族を大切にしてあげてください」。

1982年にはテレサはイスラエルパレスティナの高官にかけあって武力衝突を一時休止させ、戦火の中で身動きがとれなくなっていたベイルートの病院の患者たちを救出している。

晩年と死[編集]

1983年、高齢のテレサはヨハネ・パウロ2世との会見のために訪れたローマで心臓発作に見舞われた。1991年にはペースメーカーをつけた。この年、優れない健康状態を押して故郷・アルバニアに最初の支部を設立している。これはテレサの念願であった。また同年、テレサは健康状態を理由に総長の辞任を願い出たため全会員による無記名投票が行われた。結局賛成票を投じたのはテレサ本人だけであとはすべて反対であったため、彼女は総長に留任することを同意した。

1997年4月、テレサは転倒して首の骨にひびが入り8月にはマラリアに罹患した。すでに心臓の状態が悪化していたため、総長職は1997年3月に退いていた。1997年9月5日、世界が見守る中、テレサは87年の生涯を終えた。最後の言葉は「もう息ができないわ」であった。

テレサが亡くなったとき「神の愛の宣教者会」のメンバーは4000人を数え、123カ国の610箇所で活動を行っていた。活動内容はホスピス、HIV患者のための家、ハンセン病者のための施設、炊き出し施設、児童養護施設、学校などである。

宗派を問わずにすべての貧しい人のために働いたテレサの葬儀はインド政府によって国葬として盛大に行われた。インドの大統領や首相以外で国葬されたのは彼女だけである。彼女の死は国家的な損失であるとインドの人々は嘆き、世界の人々も彼女の偉大な働きを思って追悼した。

1997年、テレサの死後すみやかに列福列聖調査がはじめられた。通常は死後5年を経ないと始めることはできない規定なのだがテレサの場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに始められたのである。2003年10月19日、教皇ヨハネ・パウロ2世はテレサを列福し、福者であると宣言した。通常は死後、福者にされるまで50年の審査が必要とされていることを考えれば死後6年での列福というのは異例の早さである(さらに列聖には、場合によっては100年ほど時間をかけて審査される。福者は聖人の前段階)。

語録[編集]

  • 私は、なぜ男性と女性が全く同じであると考え、男女の間の素晴らしい違いを否定する人たちがいるのか理解できません。
  • 女性特有の愛の力は、母親になったときに最も顕著に現れ、神様が女性に与えた最高の贈り物―それが母性なのです。
  • 子ども達が愛することと、祈ることを学ぶのに最もふさわしい場が家庭であり、家庭で父母の姿から学ぶのです。家庭が崩壊したり、不和になったりすれば、多くの子は愛と祈りを知らずに育ちます。家庭崩壊が進んだ国は、やがて多くの困難な問題を抱えることになるでしょう。

(以上、北京世界女性会議へ宛てたメッセージ)

  • 愛の反対は憎しみではなく、無関心。
  • この世で最大の不幸は戦争や貧困などではない。寧ろそれによって見放され、“自分は誰からも必要とされていない”と感じる事。
  • 銃や砲弾が世界を支配してはならない。大切なのは愛である。
  • 愛は、それぞれの季節が実らせる果実といえます。
  • 日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります(1981年4月、初来日の際)。
  • 私は受賞に値するような人間ではないけれど、世界の最も貧しい人々に代わってこの賞を受けます(ノーベル平和賞授賞式でのスピーチ)。
  • 帰って家族を大切にしてあげて下さい(ノーベル平和賞受賞の際、インタビューで「世界平和のために私達はどんな事をしたらいいですか」と問われて)。

晩年、神の沈黙と不在に絶望し孤独に苛まれていた事が死後公開された書籍内容によって明らかになった。このことは彼女は自身の活動に対しては非常に厳しく、またラジカルな姿勢でもって臨んだとも言えるだろう。

関連作品[編集]

書籍[編集]

  • 『マザー・テレサ -神さまへのおくりもの-』マザー・テレサ著、半田基子訳、女子パウロ会、1976年
  • 『生命あるすべてのものに』マザー・テレサ、講談社現代新書、1982年
  • 『マザー・テレサ 愛を語る』ジョルジュ・ゴルレ、ジャン・バルビエ編著、支倉寿子訳、日本教文社 、1982年
  • 『ほほえみ -マザー・テレサのことば-』女子パウロ会編、江口まひろ絵、女子パウロ会、1989年
  • 『マザー・テレサ 愛のことば』女子パウロ会編、いもとようこ絵、女子パウロ会、1998年
  • 『マザー・テレサ 日々のことば』マザー・テレサ著、いなますみかこ訳、女子パウロ会、2000年
  • 『マザー・テレサ 愛と祈りのことば』ホセ ルイス・ゴンザレス‐バラド編、渡辺和子訳、PHP文庫、2000年
  • 『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』マザー・テレサ、片柳弘史(写真)、ドン・ボスコ社、2001年
  • 『マザー・テレサ書簡集』、片柳弘史編・訳、ドン・ボスコ社、2003年
  • 『マザー・テレサ -すばらしいことを神さまのために-』マルコム・マゲッリッジ、沢田和夫訳、女子パウロ会、1976年
  • 『マザー・テレサとその世界』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年
  • 『マザー・テレサこんにちは』千葉茂樹、女子パウロ会、1980年
  • 『マザー・テレサ あふれる愛』沖守弘、講談社文庫、1984年
  • 『ノーベル平和賞に輝く聖女 マザーテレサ』望月正子、講談社、1988年
  • 『こんにちわ地球家族 -マザー・テレサと国際養子-』千葉茂樹、女子パウロ会、1991年
  • 『マザー・テレサ 愛の軌跡』ナヴィン・チャウラ、三代川律子訳、日本教文社 、1995年、2001年増補改訂版
  • 『マザー・テレサへの旅 ボランティアってだれのため?』寮美千子学研、1997年
  • 『わたしはマザーに出会った -20人が語るマザー・テレサのすがた-』女子パウロ会編、女子パウロ会、2001年
  • 『愛 -マザー・テレサ日本人へのメッセージ-』女子パウロ会編、三保元訳、女子パウロ会、2003年
  • 『カルカッタ日記 マザー・テレサと出会って』片柳弘史、ドン・ボスコ社、2003年
  • 『マザー・テレサの真実』五十嵐薫著 《NPO法人レインボー国際協会理事長》、PHP出版、2007年
  • 『大ヴァチカン展パンフレット』大ヴァチカン展実行委員会、1987年
  • AERA臨時増刊『人を助けたい 震災ボランティア/善意ネットワーク』 朝日新聞社 1995年3月

漫画[編集]

学習まんが人物館『マザー・テレサ 貧しい人びとに限りなき愛をそそいだ現代の聖女』滝田よしひろ、あべさより、1997年

映像作品[編集]

  • ドキュメンタリー映画 “Something Beautiful for God”、1969年、アメリカ
  • ドキュメンタリー映画『マザー・テレサとその世界』(55分)、1979年、女子パウロ会
  • ドキュメンタリー映画『生命、それは愛』(マザー・テレサ来日の記録 30分)、1982年、女子パウロ会
  • アニメ『みんなのおかあさん マザー・テレサ』(20分)、1993年、女子パウロ会
  • アニメ『マザー・テレサ』、2000年、学研、寮美千子脚本、金井肇監修
  • 『マザー・テレサ』、2005年、ファブリツィオ・コスタ監督、オリヴィア・ハッセー主演
  • ドキュメンタリー映画『マザーテレサ - 母なることの由来』(1986年/アメリカ映画/83分)製作・監督 アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ 1988年日本公開。2007年デジタル復刻版製作、日本再公開。
  • ドキュメンタリー映画『マザーテレサ - 母なるひとの言葉』(2004年/アメリカ映画/55分))製作・監督 アン・ペトリ、ジャネット・ペトリ 2007年「母なることの由来-デジタル復刻版-」と同時に日本初公開。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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